2023.6.18みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇47篇でした。「すべての国々の民よ、手をたたけ。」世界中の人々が神賛美に招かれています。それも「喜びの声をもって」という喜ばしい賛美です。その理由は?2節、主が恐るべき方であり、全地を治める大いなる王である、ということです。恐るべき主とは、おそれうやまうべき主ということです。暴君を恐怖することではありません。優れた指導者が治めているので、世界中の民が安心して過ごせるということです。ダビデの時代には、周囲が平定され、平和な時代が与えられました。ソロモンの神殿では外国人も主に向かって祈ることができました。イスラエルの王が正しく国を治める時、その平和は世界の人々に喜びをもたらしたのです。そしてダビデは、自ら王でありながら、主こそが真の王である、という認識をはっきりと持っていました。
 5節は契約の箱がエルサレムに運び込まれる様子です。サムエル記第一の4章を読むと、イスラエルが契約の箱を偶像のように自分たちの目的のために利用しようとして大失敗する姿が描かれています。戦の最前線に持ち込んだのですが、そのことがペリシテの陣営の結束をもたらし、イスラエルは返り討ちにあい、敗走することになりました。
 ところが契約の箱における神の臨在は失われていませんでした。これを奪ったペリシテの町々は疫病で苦しむことになり、契約の箱をイスラエルに送り返すことになるのです。神は、契約の箱を通して、神御自身がどのようなお方であるかを、イスラエルの人々に示されたのでした。神の臨在に対して正しく振る舞わなければ、災いが降る。しかし、正しく振る舞うなら、祝福が神から与えられるのです。人間が自分中心の目的で神を利用することは赦されないことなのです。
 坂本九さんのヒット曲『幸せなら手をたたこう』はこの詩篇に基づいて木村利人さんが作詞したものだそうですが、そのいきさつには深く教えられるところがありました。戦後14年フィリピンのワークキャンプに参加した木村さんは、日本人として快く受け入れてもらえない現実を知り大変なショックを受けます。日本軍の加害行為を知らなかったけれど、彼の地は証拠だらけであった。しかし共に作業した青年同士、聖書を読んで祈りながら奉仕をする時に、より良い未来を共有する願いが与えられたようです。一人の青年との交流の深まりは、やがて現地で大きな変化の流れとなりました。詩篇47篇についてどのような理解があったのか、知りたいところですが、まことの神の支配のもとに、それぞれ自分たちはどうすべきなのか、問われ、赦し合い、手を取り合うことになったのだと思います。