2023.4.30みことばの光


 「鹿はもっとも臆病な生き物ですけれども、水が涸れる時には、獅子や狩人の前にも、あえて水を求めて姿をあらわすと言われています。」詩篇42篇の講解で小畑進師はこのように書いています。「それほどの神に対する渇き」。生き死にに関わる喉の渇きを満たすことを求めている鹿のように、詩人は神によるたましいの満たしを求める祈りを神の前に告白しています。1節「神よ、あなたを」、2節「神を、生ける神を」と詩人は「神」を連発しています。私たちは心が満たされない自分に気づき、満たしを求めることはありますが、果たして、神を求めているでしょうか。神こそがたましいの深いところを癒し、満たしてくださるお方だと確信して、他の慰めを退け、神のみを求める者となっているでしょうか。アウグスチヌスは「主よ、あなたは我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まることがないのです。」と語っています。神は私たちのたましいの根源的な渇きを癒すお方、そのことを教えられて、神を求め、神によって満たされる者となりましょう。
 この詩篇の背景は、イスラエル王国分裂時代、南が北に敗北し、神殿聖歌隊のコラ人も、多くの宝物と共に、北方に捕虜として連れゆかれた時のことではないかと言われています。馴染みのない不自由な環境の中、エルサレムが祝祭で賑わった日のことが思い出されます。詩人は、兄弟姉妹と共に、主を喜ぶ祭りを懐かしむ礼拝者でもありました。
 5節、この詩篇は自分のたましいに呼びかける、もう一人の「私」がいます。祈っている「私」は、うなだれている「わがたましい」の存在を外側から見つめています。そしてうなだれている自分のたましいに向かって「なぜ、おまえはうなだれているのか。」と問いかけます。理由は自分のことですから誰よりもわかっている。「なぜ」という言葉は理由を尋ねているのではありません。答えは一つ、渇いているならば「神を待ち望」むだけなのだ。「私」はうなだれる「わがたましい」の返答を捨て置き、神賛美に進みます。うなだれる自分に、自分の全てを支配させない、うなだれる自分の事実を認めつつ、しかし信仰に立つ道を選ぶ、これが詩篇42篇です。
 この詩篇には様々な音楽が付けられています。パレストリーナのモテト"Sicut cervus"はルネサンス・アカペラ様式の、大変美しく、詩篇の詩情の現れた音楽となっています。