2023.10.22みことばの光
×××詩篇の信仰について×××(野田秀著『詩篇の愉しみ』p.146~147より)
意外なことであるが、旧約聖書に「信仰」ということばはたった一度しか出てこない。「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」が、それである(ハバクク書2:4)新約聖書には数多く見ることができるのに、不思議なことではないだろうか。だからと言って、旧約聖書が信仰と関係ないわけではなく、ヘブル人への手紙11章に、旧約聖書に登場する信仰の勇者たちが名を連ねているのを見れば、彼らが信仰に生きた人たちであったことは明らかである。ここでは、詩篇の中のことばで、信仰を表しているものにどのようなものがあるか、三つだけ取り上げてみよう。
一、主を恐れること
「主は ご自分を恐れる者と親しく交わり その契約を彼らにお知らせになる。」(詩篇25:14)
これは「恐れる」よりも「畏れる」の方が適切な表現であろう。神を恐れるとは、こわがるのではなく、敬意を抱くことだからである。それは、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」に通じることである。(エペソ人への手紙5:21)
二、主を愛すること
「私は主を愛している。主は私の声 私の願いを聞いてくださる。」(詩篇116:1)
これは、ダビデの信仰告白のうちでも出色のものである。主イエスが「わたしを愛していますか」とペテロに問われたことを思い出す(ヨハネの福音書21:15以下参照)。
三、主に信頼すること
「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなく とこしえにながらえる」(詩篇125:1)
どんな風雪にも耐え、どっしり構えた人生は、神に拠り頼む信仰から生まれ、人を人生の勝利者とする。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」とあるとおりである(ヨハネの手紙第一5:4)。「信仰」ということばこそないが、このように、旧約聖書の人々の信仰は新約聖書のことばによって裏づけられるのである。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。ヘブル人への手紙11章3節