2023.5.21みことばの光
詩篇44篇をキドナー師は『国家的敗北』と題します。そして国家的災害の原因を、罪に求めない最もはっきりとした例であると述べます。中心は22節「あなたのために 私たちは休みなく殺され 屠られる羊と見なされています。」であり、これはローマの8章で引用されており、新約聖書以降の神の民、クリスチャンにも適用される御言葉です。主イエスは「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:10)との言葉をもって、八福の教えを締めくくられました。私たちは罪を犯さなくても試練や困難に出会います。神に従う神の民であるからこそ、霊的な戦いにおいて傷を受けることがあるのです。その場合の傷は、私たちが神と共に戦っていることの証拠であり勲章です。
44:1「私たち」という主語が、共同体の祈りであることを伝えます。詩人はヨシュアの時代の約束の地相続の戦いが、主の御腕、主の御顔の光、何よりも神の愛によるみわざであったことを告白します。武器でなく、自分の力によることでもありませんでした。
さらに第二連、4-8節で王なる神様を讃美し、信仰を明白にします。9節以降、窮状を訴え、23節「起きてください、目を覚ましてください」と祈るためでした。
かつて愛によって勝利をくださった記憶は、現在の敗北について、信仰者の心を動揺させます。辱めを受けるのは神の敵であったはずなのに、9節、今、卑しめられているのは私たち。10節、敗走させられ、略奪され、11節、敵の餌食となり、国外に散らされ、12節、奴隷として売られ、しかもその代価はいくらにもならない。13-14節で、周りの人々が皆、信仰者を嘲ると、15節、世の人の嘲りは信じる者の心を脅かし、辱めと恥の感情となり、心が挫けそうになります。
しかし詩人は打ちのめされません。17節「あなたを忘れず、あなたの契約を無にしませんでした。」敗北という現実に打ち負かされず、神の約束という過去の事実に基づく希望に立つのです。23,24節の祈りは、ガリラヤ湖上の弟子たちも実際に口にしました。不信仰の叫びというより、主を頼りにするから主に向かって叫ぶのです。大切なのは、主が眠っておられるように見えても、必ず状況を好転させることのできる方であると信じることです。44篇の詩人の拠り所は、26節「御恵みのゆえに」でした。ヘセド。神の契約に基づく愛。主は、ご自分の約束のゆえに、信じる者の祈りに愛をもって答えてくださる恵みの主なのです。