2023.8.27みことばの光
24日の祈祷会は詩篇55篇を学びました。キドナー師は、詩篇には、通常の経験のための祈り、「極端な」状況のための祈り、その両方があると言います。カルヴァンいわく、詩篇が『信仰者の魂の解剖図』であるなら、信仰の心の全てが示されています。通常の経験における祈りも、極端な状況下での祈りもあるということです。そして私たちは、特別な苦しみに置かれた時、詩篇の中に、同じ境遇を経験した兄弟を知り慰められます。私たちがそのような境遇になくても、私の友人が苦しむ時、詩篇を手本として、とりなしの祈りを学び、苦境にある隣人の友となることができます。55篇は親友に裏切られた詩人の苦境を歌った祈りでした。
1節「私の切なる願いに耳を閉ざさないでください」という祈りは、申命記22章1-4節の律法に基づく祈りです。神の民たる者、同胞が困っているのを見て、見ぬふりをしてはならない。迷っている羊がいたら、自分の羊でなくても、持ち主のもとへ連れ返すべきである。持ち主の家が遠かったら、持ち主が取りに来るまで預かるべきである。家畜でも、財産や所有物でも、見て見ぬふりをしてはならない。他人の家畜が倒れていたら、一緒に起こしてやらなければならないと旧約聖書の律法は命じていたのです。主イエスの「善きサマリア人の例え話」は、この神の民の律法を、国籍を超えて適用せよと教えているわけです。そして、神が教えた戒めは、神御自身の御性質から出るものです。すなわち神は、困っている者、苦難の中にいる者、弱く助けを必要としている者を、見て見ぬふりをするお方ではない、見て見ぬふりをできるお方ではないといことです。だから「私の切なる願いに耳を閉ざさないでください」という祈りは、神に聞いていただける祈りとなるのです。
15節の激しい言葉は、他の箇所では、神に逆らう者に与えられる厳しい裁きを意味しています。詩人の個人的感情とは異なります。この詩篇の詩人の敵は、神に逆らう敵でした。それゆえ正しい人をいかに苦しめようとも、ふさわしい報いは永遠の滅びなのです。個人的な怒りが激しい呪いとなっているのではないのです。
22節「あなたの重荷を主にゆだねよ」という命令に対する主の約束は「支えてくださる」ということです。私たちは自分で重荷を負わなくてはなりません。しかし、重荷を担う私を、主が支えてくださることを忘れてはならないのです。指輪物語で指輪はあくまでフロドが担わなければならない重荷でした。しかし、従者サムが最後指輪を首にかけたフロドをかついで滅びの山を登るシーンが思い出されました。"I Can't Carry It for You...,But I Can Carry You."「私は指輪を運ぶことはできないけれど、あなたを背負って運びます。」