2023.9.3みことばの光
先月から月刊誌マナによる聖書通読は黙示録に入っています。小畑進牧師の著作集では黙示録に全4巻が割かれています。その文頭を紹介しましょう。
『ヨハネの黙示録』を開きます。怪奇な象徴的表現、毒々しいばかりの描写、かと思うと、アリババが登場するような宝石に輝く都のせり出し──と、一読して、SFの世界に踏み込んだかと錯覚する『黙示録』です。人によっては、こんな昔のシンボリズムなど、今日の時代に縁はない。その謎解きをして閑暇をつぶすよりも、もっと身近な問題にふれる書を学んだほうがよかろう、という言い分も出そうです。
しかし、逆に、旧約のメシヤ像の正しい理解には『イザヤ書』があり、新約の正しい理解のためには『ローマ人への手紙』があるように、教会史、世界史の正しい理解には『黙示録』があると言われるのです。それに、この『黙示録』を閉じられた書として、人々から遠ざけるのは、〈悪魔〉の仕業である、ともいわれます。なぜなら、悪魔は自分が底なしの穴に投げ込まれて、永遠に罰せられることを預言するこの書を最も嫌っているからだ、と。おのれの末路を見透かされてしまうと、キリスト者どもが確信的になって、言うことを聞かなくなってしまうのを恐れるから、と。それこそ、彼が懸命に反対する神の御子が「王の王」「主の主」として君臨し、その信徒たちが「王」となるということなど思ってもみたくないところであり、それをクリスチャンたちに知らせたくないからだ、と。
しかし、これに対して、だからこそ、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである」と奨励されるのです(三節)。ある人は、六週間に一度はこの書を読んで、約束された祝福に浴していると聞きます。なるほど『ダニエル書』は「終わりの時まで、秘められ、閉じられている」として閉ざされてきましたが(12:9)この『黙示録』は反対で、「この書の預言のことばを封じてはいけない」と注意されていました(22:10)。ともかく、終末気分の旺溢している今日、この謎の書を解きほぐして、生きる指針にしたいと願う次第です。
まず冒頭、「イエス・キリストの黙示」という半句は、ほかならぬこの書の真っ当なタイトルと言ってよく、この書が『ヨハネの黙示録』と称されるよりも、このまま『イエス・キリストの黙示』と称されるほうがよいと言われたりします。そして、この半句は、これから展開されていくのが、主イエス・キリストの啓示であって、ヨハネ個人の人間的空想や哲学ではないことを、真っ先に打ち出したものです。