2023.4.23みことばの光
詩篇40篇は全五巻からなる詩篇の第一巻の結びです。「幸いなことよ」と、第一篇と同じキーワードで始まり、まず、「弱っている者に心を配る人」の幸いを謳います。
「幸いなことよ」という言葉は、対に約束が付随します。その約束は「わざわいの日に、主はその人を助け出される。」でした。天の神様は私たちの善きわざを見ておられ、公平に報いてくださいます。「弱っている者」とはあらゆる点で弱っている人のことを指します。私たちは自分の周りを見回して「あらゆる点で」弱っている人はいないか、私のできる助けはないか、考えるべきです。それが私の幸いにつながります。「心を配る」とは、形だけ、うわべだけ、ではなく、実際、その人がどのように弱っているのか、どのような助けを必要としているのか、心を砕いて心配し、行動することを意味します。私の助けたい思い、ではなく「その人が必要としている助け」を提供することが大切です。この教えは新約聖書マタイ5章7節「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」という主イエスの言葉で繰り返されています。主イエスは旧約聖書を廃棄したのではなく、同じ神の御旨に沿って、御言葉の真の意味を明らかにされたお方でした。私たちは「情けは人の為ならず」という言葉を知っていますが「情けは回り回って自分に帰ってくる」、これは聖書の告げている真理でもあるのです。(「情けは人のためではなく結局自分のためになるから情けはあらわすべき」というのが正しい理解ですが、「情けはその人のためにならない、だから情けをかけるべきでない」という誤解、誤用が広まっているので、注意が必要です。)
この詩篇の最初の部分は援助者となることがテーマですが、中間部分は詩人本人が弱者である姿を曝け出しています。敵の悪口があり、友の裏切りによる心の痛みがありました。王であるダビデには職務上多くの課題があり、彼の考えに同意しない勢力は常に存在していたことでしょう。その時、ダビデは、自分の意を汲む家来達によって敵に対処するよりも遥かに多くの事柄を、神に聴いていただき、神の答えに委ねた、それが詩篇の祈りの証しする事実なのです。神を信じる指導者は、人間を味方につけるよりも、自分の心を神に知っていただくことの方が、遥かに確実な解決策であることを信じて祈り、平安を持つのです。結果、彼は、主が立ち上がらせてくださることを信じて、主をほめたたえて祈りを終えるのです。アーメン、アーメン。「まことに主は私を強く支えてくださる。」