2023.1.29みことばの光


 詩篇34篇はサムエル記第一21章、ダビデがサウル王から逃亡中、ペリシテのガテの王の前で頭がおかしくなったように振る舞い、追われて去り、命守られた時に歌われた感謝の賛美です。表題にある「アビメレク」とは「私の父は王である」という意味でアキシュに与えられた称号と思われます。その少し前の事件に登場するノブの祭司は「アヒメレク」。日本語では濁点があるかないかの違いですが、ヘブル語では違う単語、違う人物になります。
 1節の「あらゆるときに」とは「その時その時に」の意味です。私の時がどんな時であっても、それはいつも主の「御手の中に」あるので、いつも主を賛美することができるわけですが、34篇は特別な事件において守られたことを背景としているわけです。
 2節「貧しい者」は「低くされた者」のことで、謙遜なダビデは、へりくだって、ただ主を誇り、主をほめることへ、仲間たちを招きました。4,5節にも証しと礼拝への招きがうかがえます。「私が主を求めると、主は答え、すべての恐怖から、私を救い出してくださった。」「主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。彼らの顔は辱められることがない。」ペリシテ人に殺されるという恐怖から守られたダビデは、アドラムの洞穴にたどり着き、ここにダビデの仲間400人が集結します。彼らにとっての喜びは、ダビデが救われたことではなく、主がダビデを救ってくださったことでした。ダビデが救われたことに、主の栄光を仰ぎ見たので、彼らの顔は信仰の喜びで輝いたのです。7節「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される」。旧約聖書には度々「主の使い」が登場しますが、これは主なる神ご自身が地に降られた姿でした。それは一時的なことでしたが、やがて神の御子はイエス・キリストとして生涯のすべてを御民の間で過ごし、父なる神の愛を、あますところなく示されたのでした。
 34篇はダビデが救われた証しから、人々を礼拝賛美に招く詩篇です。8節「味わい、見つめよ」との言葉も礼拝への招きです。つまみぐいではなく、じっくり味わうこと。またじっと見続けて思い巡らすことです。礼拝や日々の祈りの時間は、落ち着いて一定の時間をかけることに意味があることを忘れてはなりません。私たちの人生は「神と交わり、人と関わる」人生ですから、そのバランスが大切です。日曜日には主と交わり、そして週の六日間、隣人と関わる力をいただくのです。9節の「主を恐れよ」は4節の恐怖とは異なります。畏敬の思いです。創造主なる神、救い主なる神を、畏れ敬うことです。神への畏敬が、必要の満たしにつながります。10節「若い獅子も?飢える。」人の目には敵なしに見える若い獅子も、獲物がなければ飢えるのです。主を畏れる者は、すべてを支配しておられる神が、その人の必要を知って、満たしてくださるので、良いものに満たされるのです。