2023.7.16みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇50篇を学びました。私たちの主なる神様は、私たちとの、心の通う交わりを求めておられる神様です。そのことがよく分かる詩篇ですが、1?6節は、裁きの始まる情景が描かれています。
 1節「神の神、主は語り、地を呼び集められる」。「神」は神の一般名詞、原語のヘブル語で、????エル、???????????エロヒーム(複数形)です。(神々の中の神と訳せるかもしれません。ヘブル語は右から左へ読みます。「エル」は???アレフ、?ラメドの順で読みます。)神の民を裁くために、証人として天地万物のものを神が呼び出されるので、一般名詞の神と固有名詞の主が用いられています。太字の主は????????ヤハウェ、モーセに明らかにされた「在りて有る者」という意味のイスラエルの神の名前です。イスラエル人は御名をみだりに唱えることを厳しく戒めたために、「ヤハウェ」と発音することなく「アドナイ(主)」と呼びましたが、「ヤハウェ」と口にしていけないわけではありません。
 この詩篇の神様は「食い尽くす火」「激しい嵐」(3節)で、神の民の真実を問われます。「さばきは神の家から始まる」(第一ペテロ4:17)と書いてあるように、神の前での歩みと生き様は、未信者ではなく、聖書を知り、福音を知っている私たちこそ、問われるところなのです。
 前半は8節「いけにえのことであなたを責めるのでない」の言葉に集約されます。神の民は動物犠牲を捧げて神を礼拝していましたが、神に不足はありません。神は貪欲で、犠牲を欲する神ではなく、御自身は全ての物の所有者なのです。(10-12節)その神様は「感謝のいけにえを?献げよ。」「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」と言っておられます。すでに救われた私たちは、真心からの感謝こそ神に献げるべきであって、良くしてくださった神に、「ありがとうございます」と感謝することを、神様は何より求めておられるのです。「苦しい時の神頼み」とは、否定的な言葉ですが、私たちの助け主なる神様は、「苦難の日に呼び求めなさい」と命じておられるお方なのです。頼りにされることこそ、神様の喜びだからです。形ばかりの礼拝、献金は、神を悲しませることになります。それよりは、苦しみの中で、神様に向かって叫ぶ真心の方が、ずっとずっと神様の求めておられる真実な信仰であり、神との交わりなのです