2023.7.30みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇52篇を学びました。ダビデ逃亡生活中の詩篇。サムエル記第一の21章22章の事件を背景としています。ダビデは、ノブの祭司アヒメレクによって、助けを受けたのですが、サウルの牧者の長、エドム人ドエグが、告げ口します。結果、アヒメレクは殺され、彼だけでなく、祭司八十五人、祭司の町の男も女も、乳飲み子に至るまで惨殺されたのでした。アヒメレクの息子、エブヤタルがなんとか逃れてダビデの元に来ます。ダビデは、悲劇の起きたことに対する自分の責任を認め、エブヤタルの身の安全を保障するのですが、これと前後して、52篇の祈りが捧げられたと言って良いでしょう。
 恐るべき殺戮が起き、エブヤタルの心の中には、ダビデさえ私たちの所に来なければ、という思いも生じる可能性がありました。しかし、ダビデは、善悪をきっぱりと分けるのです。サウルの前で功績を得ようとしたドエグこそ、悪を誇りとする者なのだと。1節、勇士よ、という呼びかけは皮肉です。祭司たちを殺して、あなたは、称賛を得たのか?そういう問いかけです。1節2行目の神の恵みはいつもある、は、悪者をも等しく恵みたもう神の恩恵を示しています。だというのに、サウルの前で、もっと地位の向上することを願って祭司たちの罪のない命を犠牲にしたのがドエグでした。サウルの他の家来たちは、すでにサウルの判断が異常であることに気づき、サウルが何を言っても応じる人はいませんでした。こういう状況をドエグは自分にとっての好機としたのです。彼は、神によって裁かれるのです。5節、砕かれ、幕屋の交わりから除外され、根絶やしにされる。これは裁きの三つの段階を示しています。砕かれ、とは個人的な裁き。2番目は神の民という共同体の中で裁きを受けること。そして最終的には永遠に滅ぼされます。
 他方正しい人たちは、8節、神の家に生い茂るオリーブの木。現実には、祭司の町ノブでおびただしい血が流されてしまったからこそ、天の神の家では悪者が乱すことのできない平和と繁栄があるのだということをはっきりと示すことが重要でした。7節と8節の対比が重要です。悪者が拠り頼んでいるのは「自分の大きな富」「破滅のわざ」でしたが、正しい人は「神の恵み」に拠り頼むのです。9節は、ダビデの逃亡生活が終わっていないことを示しています。「すばらしいあなたの御名を待ち望みます。」神様の解決を信じて待ち望み、そして、感謝した。これがダビデの、未来を先取りする信仰の歩みでした。悲劇に絶望せず、悪が砕かれることを信じ、神の恵みに信頼する人生でした。