2023.3.26みことばの光
詩篇39篇は指揮者エドトンのために。との副題が付いています。歴代誌第一の神殿礼拝計画に名のあげられたダビデ時代の聖歌隊長、奏楽リーダーです。他のリーダーと共に、それぞれにダビデ作の讃美歌を委ねられ、小さな歌集を持っていたのではないかとの説があります。
詩篇は祈りであり賛美。言葉を発することなのですが、この詩篇は「黙ろう」との決意をもって、この詩を綴ります。「悪しき者」の前で不用意な発言をしないように。「良いことにさえ」沈黙した、とはどういう状況なのでしょうか。心の痛みが激しくなり、4節から祈りによって主の前でだけ事情を陳述する時に、彼がなぜ沈黙を守ろうとしたのかがわかります。
この詩篇の詩人も老齢を迎えていたようです。自分の人生の終わりが見えてきた、その時に、人生のはかなさを知ったのです。この詩篇には「空しい」という言葉も繰り返されています。福音は人間の根本問題を解決しますが、しかし同時に、この世のすべてのものの儚さをも鋭く見つめることを聖書は教えているのです。この思想は伝道者の書において徹底的に展開され、かつ新約聖書、イエス様の言葉の背景にも同じ世界観は歴然と存在しています。(ルカ12:20)私たちはこの世の幸せが永遠に続くと誤解してはなりません。
詩人は人生の虚しさに怯えるばかりでありませんでした。38篇にも共通する罪の懲らしめを感じ取っていました。正直な悔い改めは神の御前で完全な赦しに出会う。しかし地上では罪の刈り取りがある、このような信仰者の「証しにならない現実」を彼は忍耐し、黙っていたのですが、堪えきれず神様に正直に打ち明けたのです。本当に罪深く愚かな私、だけれど、望みも神様にしか存在しないのだ。ここにこの詩篇の正直な信仰があります。7節「主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」
神様の懲らしめがふさわしい私。そんな現実を覚える時、私たちなら信仰を捨てて、好きなように生きた方が楽、と思わないでしょうか。ところが詩人は正しいゴールが神にあるということを見失わないのです。罪を責めるのが神なら、罪を解決するのも神。12節「主よ、私の祈りを聞いてください。」どこまでも神様の御前に自分を置く祈りをささげる。これがダビデの信仰でした。13節の言葉も決して勇ましくありませんが、神様の前での正直な信仰者の姿ではないでしょうか。彼は弱さの中で、神に向き合う信仰だけは捨てませんでした。この信仰が彼を守っているのです。