2023.3.5みことばの光


先週の祈祷会は『聖書に聴く』。ルカ10章を読み、恵みを分かち合いました。イエス様はご自分が行くつもりの場所に、あらかじめ二人づつ弟子を遣わしました。信仰者が二人で行動することは1+1=2以上の力になります。またイエスご自身も多くの町々を回られました。それぞれの町の備えのために、小バプテスマのヨハネとも呼べるような備えの働きが用いられました。
 「収穫は多いが、働き手が少ない。〜働き手を送ってくださるように祈りなさい。」これは今日も同じです。魂の飢え渇きを覚え、救いを求めている人は大勢いるのです。そして真の救いに出会うことなく、様々な教えに惑わされて、滅びの道に近づいている人々が大勢います。私たちは働かなくてはなりません。しかし、主イエスはまず「祈りなさい。」と言いました。行動する前に祈りが必要です。そして真心から祈る中で、整えられ、遣わされるのです。
 それは「狼の中に子羊を送り出すようなもの」私たちは弱さや愚かさを持ったままでも、父子・聖霊の神様の助けを求め、助けられて働きをまっとうするのです。「道で〜あいさつしてはいけません。」という命令は、語るべき福音をいつまでも語らず、世間話で終わってしまうことを戒めています。今日の私たちの現実には挨拶が必要な場合があるでしょう。語るよりも聴くことが必要な場合もあるでしょう。ただし、語るべきことを語らずに終わってはならないことをイエス様は警告されたのです。72人の弟子の派遣も、主イエスから委託された権威を帯びた派遣でした。私たちは、誰に対しても、どの家に対しても、平安を祈るべきです。そして、そこに平安が与えられるかどうかは、神様に委ねます。またそれを受け取る人々の信仰にもかかわることなので、私たちが結果を左右することはできません。信仰は強制ではありません。宣教を受け入れる人々に真の平安が与えられるのです。
 受け入れないコラジン、ベツサイダ、カペナウムに厳しいさばきが宣告されました。ヨナのニネベ伝道と同じで、神様は警告なしにさばきを下す暴君ではありません。ニネベは悔い改めてさばきを免れます。72人の派遣もイエス様の警告がありましたが、成果も上がったようです。しかし喜ぶべきは悪霊が服従することではなく「名が天に書き記されていること」でした。わたしが救われているという根源的な喜びを、自分の心の内に確かなものとすることこそが、宣教の前進のために必要なのです。