2023.6.4みことばの光
先週の祈祷会はホセア書6章を読み、教えられたことを分かち合いました。1節から3節には主に立ち返る決意の込められた良い言葉があります。「癒し主なる主を信じ」、「生き返らせてくださる主の御前に生きることを決意し」、「主を知ることを求めよう」、「主は確かに現れて、恵みの雨で潤してくださる」と信仰の言葉が散りばめられています。
しかし4節以下、主の返答は辛口でした。民の信仰は口先だけの信仰で、誠実さと真心からの悔い改めに欠けていたからです。「あなたがたの真実の愛は朝もやのよう」とは、厳しい言葉です。民の間に、真実の愛を示そうという姿勢が全くないわけではありません。しかしその愛は「朝早く消え去る露のようだ。」朝明けの頃に、キラキラ輝くのですが、太陽が高く昇ると、消えてなくなってしまう頼りない愛、変化する態度なのです。主が求めておられる「真実な愛」とはかけ離れていました。見せかけは何も無いこと以上に罪深い場合があります。不誠実を隠す偽善だからです。5節、「それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。」本来ならば預言者の言葉、神の言葉は、人に光を与え、真実を教え、道を導き、いのちを与えることばですが、不正や偽善に対しては、「裁きと死」をもたらすのです。私たちは神を欺(あざむ)くことはできないし、神を侮(あなど)ってはならないのです。「あなたへのさばきが、光のように出て行く。」との言葉は3節「暁のように現れ」という民の根拠の無い期待に真っ向から反対する痛烈な皮肉でした。今、あなたがたにふさわしいのは「恵みの光」ではなく「さばきの光」である。「悪を明らかにし、きよめ、燃え尽くす炎なのだ」ということです。
しかし主は争いを望んでいるのではありません。どこまでも「わたしが喜びとするのは真実の愛」でした。神様は私たちを愛しておられるからこそ、私たちに対して、切に、「真実の愛」を求めておられるのです。「姦淫の妻を娶(めと)れ」(1章2節)と命じられたホセアは、不誠実を続ける妻を、それでも愛し続けることを強いられました。その姿を通してイスラエルを愛し続けておられる主なる神様の愛を人々に伝えるためでした。7節から10節にはイスラエル社会の悪が告発されています。これだけ記せば当時の人々には何の事件であるか明白だったので、記述に省略があるような書き方です。事件を特定することはできませんが、北王国末期の様子は列王記第二17章などを通して知ることができます。祭司が殺人を計画し実行するような時代。姦淫は霊的な姦淫、偶像礼拝のことです。人々は、イスラエルの主を礼拝しながら、偽宗教にも心と金を注ぎ、自分の欲望を満たすことを求めていたのでした。