2023.9.10みことばの光
先週の祈祷会は詩篇56篇を学びました。背景はサムエル記第一21章、ダビデがサウル王に追われて逃亡生活中、ペリシテのガテにまで行った時のことです。
2節「私の敵は、一日中私を踏みつけています。高ぶって、私に戦いを挑む者が多いのです。」ダビデはイスラエルの王サウルに命を狙われ(サムエル記第一20:31~33)ていたのでイスラエルに居場所が無くなりました。それでなんと戦争継続中の敵ペリシテの地へ逃れることを選んだのですが、長居はできなかったようです(サムエル記第一22:1)。あちらにもこちらにも彼に戦いを挑む敵がいて、彼の困難は一日中(1,2,5節)継続し、休まることがありませんでした。
しかし試練こそが彼を信仰によって神の御前に追いやったのです。3節「心に恐れを覚える日、私はあなたに信頼します。」4節「?神に信頼し、私は何も恐れません。」9節「そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。」野田先生は、この詩篇の黙想のすすめで、次のように述べています。「信仰者にとって、困難や危機と神の御前とは、時に同義語であることを知っておこう。」なぜそうなるのか、というならば、13節「まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前を歩むために。」神様が私たち一人一人の神の御前を歩むことを望んでおられ、私たち一人一人を試練から救い出してくださるので、困難や危機が、神の御前と同義語になるのです。確かにそうです。なんの試練もない時よりも、危険から守られた時の方が神様の守りを強く確かなものとして感じることができるからです。
敵地ペリシテにまで逃亡したダビデは、彼の特異な経験を8節に「さすらい」として記しました。原語ではこの言葉が「皮袋」という単語と同じ子音、似た響きを持っており、さらにこの節の1行目「記しておられます」と3行目「書き記されていないのですか」に同じ子音を持つ動詞が用いられており、美しい詩句になっています。言葉だけ美しいのでなく、不安と憂鬱を抱えながら、天の父なる神様を愛して、信頼する思いが注ぎ込まれた信仰の美しさが滲み出る言葉です。ティンデル注解のキドナー先生は、マタイ10:29-31で一羽の雀のたとえを用いて父なる神様の愛を語った主イエス様の口調に似ている、と述べています。イエス様も福音書の中で敵に待ち伏せされ、囲まれる試練を経験しましたが、そのような経験と同時に、天の父なる神様の見えない御手が、ご自分を守っておられることを信じる道を、私たちに示されたのです。