2023.5.14みことばの光


 詩篇43篇は独自の表題を持たないこと、中身に42篇と同じ句が登場することから、42篇と一続きの詩篇と見る人もいます。同じ折り返し、リフレインを持つ、3節から成る讃美歌と見ることも可能です。またカルヴァンは、あくまでダビデの詩篇とします。42篇の試練は長期にわたるので、アブサロムの時ではなくサウルの迫害の時。その経験を祈りの讃美歌にし、やがて神殿礼拝を担うコラ人らの歌集に託したとする。
 ダビデは自分の経験した試練を、自分だけが受けた、降って沸いたような災いと考えませんでした。彼が受けた理不尽は、彼をして、神に「なぜ」と問わせますが、同時に、正しい人もこのような試練に会うことを彼は学んだのです。そして同じような試練の中で、どのように祈るべきかの手本を、後の時代の人たちに与えたのです。彼はこのような祈りを通して、サウルに直接報復する過ちへの誘惑から守られました。不完全さを人々の前に晒したサウル王の王権に傷をつけることなく、彼の後にスムーズに王位を受け継ぐことができました。
 1節「神よ、私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から助けてください。」「不敬虔な民」「欺きと不正の人」、これらは非常に強い言葉でダビデの経験した敵の冷酷さ、残虐さ、極悪さを伝えています。実際、妬みからダビデを殺そうとしたサウルの仕打ちは、根拠のない、100%否定されてもおかしくない行動でしたが、ダビデはこの問題を神に委ねました。「さばいてください」という言葉は、正しい審判を求める祈りです。自分に非がないので、堂々と神に公平さを求めることができます。ダビデはサウルに命を狙われる前、羊飼いの少年時代に獣から守ってくださる主の力を経験しました。対ペリシテ戦においては、ゴリアテを倒しただけでなく、いつも主に守られて大勝利がありました。その力の神が、今、自分を危険な目に合わせて放って置かれるように見える、これが、現在のダビデの試練でした。2節、神が私を退けているように見える、荒野を放浪させている理由がわからない。それでダビデは正しい裁きを求めて主に訴えているのです。ダビデは諦めやニヒリズムに陥ることはありませんでした。試練に出会っても、正しい神は祈りを聞いてくださるという確信を保ち続けたところに、私たちのための祈りの模範があります。そして彼が求めたのは、「私の最も喜びとする神のみもとに生き、竪琴に合わせて、あなたをほめたたえ」ることでした。いつか当たり前の礼拝の幸いが戻ってくる、そのことを信じて期待しながら、かたやうなだれている自分の魂を叱咤激励したのでした。