2023.2.19みことばの光
詩篇36篇には三つの連があります。1-4節で罪の恐ろしい姿がはっきりと描かれます。私たちは神の声を聴くために聖書を開き礼拝に集いますが、「悪しき者の背きのことば」も「私の心の奥にまで」かんたんに届いてしまうのです。生活の中で、悪の誘惑を受けたことを思い出すなら、そうであったと頷ける言葉です。人類最初の罪も悪魔の囁きで始まりました。悪しき言葉が人の心に囁くのです。だから詩篇は、嫌悪すべき悪の姿を描きます。「神に対する恐れがない」者になってはならないのです。2節「自分の判断で自分を偽」ってはなりません。私たちは人間同士でも謙遜であり、人から教えを求める者でありたいですが、まして神の判断を絶えず仰ぐべきではないでしょうか。自己中心、自分勝手な判断は悪の道です。3節はことばによって内面の悪が外に影響を及ぼす様子、二つの否定語による罪深い姿です。「思慮深くあろうともせず、善を行おうともしない。」人は悪に身を委ねると、次第に愚鈍さが増し、善を求めず、悪を行い続けることに平気になってしまうのです。
しかし4から5節の場面の転換は鮮やかです。私たちが目を向けるべきは天にある神の恵み。神様は恵みを天に持っておられるので、私たちが信仰をもって天を見上げる時に、恵みを天から、豊かに注いでくださるのです。天の恵みは、天上的、天国的、無限の恵みです。その中から私たちは善きものをいただくのです。「真実は雲にまで及」ぶ。人間的な基準を遥かに超えています。神様は、ご自分の誓われた約束のゆえに、私たちに誠実を尽くしてくださいます。「義は高くそびえる山」。揺るぎなく、神は正義を行われますから、私たちは地上に悪が満ちても、このままで終わらないと信じて、期待することができます。「さばきは大いなる淵」。見極められない深みに、最終的なさばきがありますから、私たちは謙遜にその時を待つべきです。6節3行目は神の恵みの転換点です。5、6節は壮大な神の恵み。しかし、主は「人や獣を救ってくださいます」から、私たちは一人の人間として、またあらゆる生き物も、命をいただいた一つの生命として神の恵みを受け取るのです。旧約聖書の幾つかの箇所に動物図鑑があり、マタイの福音書6章にも鳥の図鑑、花の図鑑があります。神様の恵みは一羽の雀に注がれるのです。壮大であるだけでなく、小さな個々を、守り、満たし、潤すのです。
悪の恐ろしさと神の恵みの素晴らしさを見つめた詩人は、だからこそ10節「注いでください。あなたの恵みを」と神の恵みを求めて、祈る者になりました。