2023.1.15みことばの光


 詩篇32篇は「幸いなことよ」で始まります。詩篇は第1篇が同じ言葉で始まっており、また有名な主イエスの山上の説教(マタイ5章)も「幸い」についてのメッセージでした。聖書は全体に渡って「幸い」について教える書物と言うことができるでしょう。
 そして詩篇32篇は「罪赦される幸い」について教えています。1節と2節で「幸いなことよ」という言葉が繰り返されています。「罪赦される」ことが、私たちにとってどれほど大切かを強調しているのです。「幸いなことよ」という言葉は非常に強い言葉で、そのニュアンスを生かすなら「なんて幸せなんだ!」と!マークをつけるのがふさわしいほどです。実際に私たちはみな、信仰を決心した時に、神様の前に罪を告白して祈ると、赦しの確信が与えられ、心が軽くされたことを、経験しているのではないでしょうか。
 1節の「背きを赦され」という言葉は、直訳すると、罪が持ち上げられ、取り除かれる、ニュアンスがあります。「罪をおおわれ」という言葉は、まだそこにあるものがただ見えなくされることですが、罪の赦しは根本的な解決です。そして2節、主が咎を認めないということ。罪の赦しは、信じる者に神から与えられる一方的な恵みです。罪赦された人は、自分が罪人であったという認識に立ち、しかし、赦された恵みを謙虚に受け止め、罪から離れ、御霊によって歩む新しいいのちへ進みます。3,4節は罪の告白に至る前の霊の状況です。黙っていると「骨は疲れきり」「一日中うめく」ことになります。「御手が重くのしかかり」「骨の髄さえ乾き」きってしまいます。罪の赦しを神に求めることを知らない現代人の多くが、心に重荷を抱えたまま体も弱らせてしまう危険性を教えられます。解決する方法は神の御前に正直になり、罪を罪と認め告白することです。詩人は罪を認め、告白することを決意しました。すると赦しはたちまち与えられます。神に対する「背き」をはっきりと認めることが重要です。
 6節は罪を持ったままでいることの危険性が「大水の濁流」に例えられています。しかし神に祈り、罪を告白し、赦しを得た人には、濁流が届きません。主が「隠れ場」となってくださりその人を「守る」からです。
 9節は詩篇の読者に向けられた言葉です。赦されることが幸いなら、神との交わりをもって共に生きることはさらに幸いです。分別のない馬やらばは強いられないと主人の言うことを聞きません。私たちと神との関係は、それとは違います。ヨハネ15:15で主イエスは弟子たちのことを「友」と呼びました。主人の心を知らずに従わせられる奴隷とは違うのだ「あなたがたは友だ!」と主イエスは言われたのです。私たちは、私たちを友としてくださるお方の御心がわかるので、喜んで友の願うことを行うものに変えられてゆくのです。