2023.4.9みことばの光
1.教会へ通うまで 三浦綾子さんの小説「積み木の箱」を読んで感動し、続いて同じ著者の「自我の構図」「裁きの家」「残像」などを読んだのは、1974年秋から75年1月にかけてでした。私は三浦さんの小説に出てくる人間葛藤、愛とエゴイズムとの交錯のすさまじさには、息をのむ思いでしたが、そこに私自身を裸にした姿が写し出されているとは、そのときはまだ気がつきませんでした。私は三浦さんの小説から随筆、さらに自伝へと読み進むうちに、三浦さんが敬けんなクリスチャンであり、私を感動させたものが、キリスト教の倫理観、人間観であることを知りました。
9月に新潟市で開かれた、リバイバルクルセードで、私は始めてキリスト教の話をききました。滝元先生のお話や、何人かのあかしに私の心はゆさぶられました。23日から28日までの6日間のうち4日間を通いました。私は人間の罪一般の問題としてではなく、私自身の罪に気づかされたとき、思わず流れる涙を抑えることができませんでした。しかし、多くの決心者が招かれて前へ進むとき、私は身を固くし席を立ちませんでした。いままで50年も1人で頑張ってきたのだというプライドのようなものが捨てきれず、そのときはついに神のふところへ飛び込む決心が出来なかったのです。その年の12月に新潟福音教会から、クリスマスへの誘いの絵葉書をいただき、始めて教会へ行きました。9月のクルセードでは、意地を張って抵抗したつもりの私を、神は見放されず、再び招いて下さったのです。そして1月から日曜礼拝に出席するようになりました。<中略>
3.教会で 私は教会へ通うようになって、牧師に助けられながら、始めて聖書を本気で読みました。新約→旧約→再び新約へと読みながら、その内容の広さ、深さ、正しさ、清さにはほんとうに降参させられました。聖書の教えはまことにすぐれた人倫、道徳の規範であると思いました。しかし、半生を神の見えない世界で過ごした私には、聖書が神の啓示、神の言葉であるというかんじんのことがわかるには時間がかかりました。牧師の導き、教会員の助け、世の光放送、ライフセンターの手引書、それから礼拝のたびごとに繰り返される求道者のための祈りなどが、全部一つになって私に注がれたのは、やはり神の恵みという外ありません。私は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)の言葉を信じて、神に従いたいと思います。