2023.2.12みことばの光
詩篇35篇は直前の34篇の格調高い信仰告白と異なり、ダビデのつぶやきがありのままに記されています。野田先生は「ダビデのツイッター」と題を付けています。神様に聴いていただく祈りは、素晴らしい信仰の言葉ばかりでないのです。ダビデは自分の困難な実情をそのまま訴えました。私たちも、自分の実情をそのまま神様に訴える祈りをささげましょう。34篇で解決した問題が、ここでは未解決のまま残っています。救出は遅延し、ダビデの心は傷ついています。しかしダビデは救いの日の到来を疑っていません。助けを求める嘆願は、すべて希望の言葉で結ばれています。苦しみを訴えつつ助けを信じる、この祈りに学びましょう。
1節の「争い」「戦い」は比喩的な言葉で、現実の戦さに限らず、あらゆる人間関係を背景として想定することができます。聖書は正しい人が試練に出会わないと言いません。むしろこの世には悪が存在し、正しい人は正しさのゆえに苦しむことがあるのです。
詩篇の中では34篇と35篇にだけ「主の使い」が登場します。34篇では「主を恐れる者の周りに陣を張り、助け」出してくれた主の使いが、35篇5節では、敵を「籾殻のように追い散らし」6節では、敵の「道を暗闇とし、滑りやすくし、追」ってくれます。
ダビデの苦しみは7節「ゆえもなく」敵が彼を苦しめたことにありました。19節も同じ言葉を繰り返して35篇の苦境を伝えています。理由がわかれば、また理解できれば対処の方法も見つかるでしょうが、悪者は悪者であるゆえに、正しい人を苦しめることがあるのです。主イエスはヨハネの福音書15章18節以降、弟子たちが世から憎まれることがあることを教えるために、この詩篇を引用されました。私たちは人から好かれるために正しいことを行うのではないのです。正しいことを行なっても、人から憎まれることがあることを忘れてはいけません。むしろ世から憎まれることがないのなら、本当の意味で主に従っていないのかもしれません。ダビデの善に対して敵は悪をもって報いたことが12節から16節に記されています。
21節、ダビデは敵の嘲りの声を耳にしました。彼の惨めな姿が敵の目に晒され笑い物にされています。しかしその時に彼が確信したのは、主がご覧になっておられる(22節)ということでした。聖書の神様は、正しい人の苦しみを「ご覧になり」助けられる方なのです。ダビデは今は試練の中にありました。しかし、救いの日の到来を信じて、その時には信仰の兄弟姉妹と共に神を賛美することを待ち望む者となったのです。(9,10,18,27,28節)