2023.4.16みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇40篇を学びました。試練の詩篇が続いて来ましたが40篇の前半は晴れやかな救いの経験が歌われています。1節、ヘブル語原文で冒頭の言葉は「切に」です。非常に強い言葉が用いられています。それに対する主の応答も「耳を傾け」という訳では行儀良すぎるくらいです。体を屈め、ダビデの方を向いてくださった動作が見えるような言葉が用いられているそうです。2節の「滅びの穴」が実際にどのような試練であったのかはわかりません。だからこそ私たちは自分の出会った試練と詩人の思いを重ねることができます。「泥沼」は足掛かりのない救いようのない恐怖ですが、そんな危険から主は、ダビデを救い出されたのでした。
 3節、賛美は主が彼の口に授けた歌でした。私たちが礼拝毎に歌う賛美の歌も、根源は主の恵み、主の救いにあることを憶えさせられます。また賛美は人に聞かせるものではなく、神に捧げられると言いますが、ここでは明らかに人に影響を及ぼすことが期待されています。「多くの者は見て恐れ、主に信頼するだろう。」それは歌声や音楽の美しさを人に聞かせるのではありません。神様が恵んでくださった、神様が救ってくださった、その証しが、人々に神への畏敬の念を起こさせ、人々を神への信頼に促すというのです。そのような真心からの証しの賛美を捧げるものとならせていただきましょう。
 4節以降、詩人は二つの分かれ道の一方を選び取ります。詩篇はこのことを繰り返しています。幸いな人とは「高ぶる者や、偽りに傾く者たちの方を向かない人」です。この世の成功者となって、自分の罪に気付かない高慢な人たちのことです。正しい人は彼らに目を向けず、見るべきはただ神のみ。5節以降神に視線を集中します。「あなたがなさった(過去)奇しいみわざと私たちへの計らい(未来の計画)」は、過去にも未来にも満ち満ちている神の善き業のことです。
 すばらしい御業を経験した詩人は、律法の定めるいけにえを捧げる礼拝では不十分と考えます。7節、自分自身を生きた供え物として神に献げます。ダビデ自身がこのような感謝と決意をもって神の御前に立ったのですが、完全に自分自身を献げ尽くしたお方は、十字架で死なれた私たちの主イエス・キリストお一人でした。(ヘブル人への手紙10章5-10節参照)