2022.12.25みことばの光


 詩篇31篇は苦難から確信への流れが2回繰り返されています。詩人は1節から救いを求め始め、8節で確信に到達しますが、再び9節から憐れみを求め、24節では信仰者に広く呼びかける者となります。実際に試練が繰り返されたのか、祈りの洞察が深められたのか、解釈は分かれますが、祈りの中で確信が与えられても、なお祈るということは、私たちの祈りの現実としてありうることではないでしょうか。一度祈り終えても、まだ祈るべきことが残されている、それなら私たちは祈るべきです。とりあえずのゴールは、信仰の兄弟姉妹に信仰の道を呼びかけるほどになるまで、です。24節「雄々しくあれ、心を強くせよ、すべて主を待ち望む者よ。」
 1-3節の求めにおいては、主に身を避けるだけでは不十分。主に主導権を握っていただく必要が覚えられています。1節3行目「あなたの義によって、私を助け出してください。」という言葉がそれです。1節2行目の「私が決して恥を見ないようにしてください。」という祈りは、主のしもべである私が、濡れ衣を着せられようとしている、しかし、私はあなたの忠実なしもべだから、無実を晴らしてください、という祈りです。3節の「御名のゆえに」という言葉も同じ祈りです。黙示録5:8に「香は聖徒たちの祈りであった」という言葉があります。聖徒たちの祈りは神の御前にかぐわしい香りとなって届くので、神様は信じて祈る私たちの祈りを喜んで聴いていてくださるということです。それで、5節「私の霊をあなたの御手にゆだねます。」という祈りが続きます。この霊は肉体を除く霊ではなく、体も含めた全ての意味です。主イエスは十字架上の最後の言葉としてこの詩篇を引用されました。全てを父に委ねたからです。しかし詩篇はダビデの祈りであり、私たちの地上の生活は続きます。主イエスが死なれたので、私たちは罪のゆえに死ぬ必要がなくなりました。5節3行目「あなたは私を贖い出してくださいます。」救い出してくださいます、という確信に立ち祈り続けることが私たちの現実に必要です。
 聖徒は6節、偶像礼拝を拒絶します。偶像礼拝の本質は自己中心、自分の欲望を神とすること、宗教を自分のために利用することです。私たちは義なる神に仕え、義なる神に従います。時には苦しいところを通らされるとしても、正しい者の悩みを知っていてくださる神様が、広い所に導き、立たせてくださることを信ずべきです。23節「主は誠実な者を保たれる。」