2022.6.12みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇13篇。たった6節の短い祈りですが、深い悲しみから確固とした信仰への思いの変化が与えられる祈りです。詩篇は私たちの祈りの手本となるもっとも優れた祈祷書であり、選りすぐりの150篇の曲からなる讃美歌集です。これを自分の信仰に役立つ道具としましょう。また黙読をするだけでは字面をなぞって終わることがあります。時には声に出して、心を込めて自分の祈りとして読んでみましょう。息を吸い、声を出すと、信仰告白、祈りの吐露、そのものになります。そして私たちの心にも体にも聖霊が働いてくださり、明らかな信仰の思いに導かれます。
 初めの2節に「いつまで」という言葉が4回も登場します。詩人の悲しみは一日中、心から離れない強く深い悲しみでした。自分の経験した悲しみを考えてみましょう。詩人の悲しみは三つの側面がありました。1節では、主がわたしを忘れているように思われる、御顔を隠しておられるように思われる、神様との関係に暗雲が垂れ込めている状態です。本来ならば主は私のことを忘れないお方、覚えていて、祈りに答えてくださる方だからこそ、そうでない時には、祈らざるを得ません。祈ることは、神様が答えてくださるお方だとの信仰に踏みとどまることです。2節、悲しみは、思い悩みでした。ああでもない、こうでもない、様々な思いが錯綜するのですが、落ち着きどころがない。詩人はそのことも神様に訴えます。あなたが私のたましいの導き手であられるなら、私のたましいは平安を見出せるはずです、そう信じているから祈ります。そして、敵の存在が詩人の悩みでした。私たちは対人関係で悩むものですが、真の敵は私たちを永遠の滅びにいざなう悪魔、サタンです。その策略にはまってはなりません。目に見える人を敵とするのではなく、人のおごり高ぶりの背後で、争う私たち双方を滅びに誘っているサタンの罠を見抜き、罠から離れなくてはなりません。
 3節は健全なエゴです。主が私に目を注いでくださること、私に答えてくださること、目を明るくしてくださること、死の眠りにつかないことは、求めて良いのです。自分のことしか目に入らない自己中心は出口がなくなります。しかし私を愛しておられる神様に、求めて良いことがあるのです。そして神様は私を愛しておられるので私の祈りに答えてくださるのです。