2022.5.8みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇86篇。祝日スペシャルということで小畑進先生の詩篇講録を読み、教えられたことを分かち合いました。小畑先生は「めめしい?」と小見出しを付けて1節から7節を引用し語っています。「彼は傲然と立っていないで、土にひれ伏しています。拳をふりあげないで、手を合わせています。胸を叩かず、胸を打っています。声を荒げず、声をひそめています。ともかく、彼は強いというよりも弱く、大きいというよりも小さく、神の前にひれ伏して、一匹の祈り虫になっているのです。ひるがえって、私たちは、かつて強い人というと、何ものにも頼らない人、自力自立していく者と思っていました。それこそ、神にも頼らないでいく人と。神などに頼る者は、それだけ弱い人と思っていました。神に祈り求めるなどというのは弱虫。まして、アーメン、ソーメンなどと口にする輩(やから)は男らしくない者と。日本人は、『神仏崇めて、神仏を頼まず』という宗教観を支持し、特に都市部では男女とも、この宗教観が高率であるといわれています。『神仏を崇めて、神仏を頼まず』━━格好よいこと。それは、二刀流の達人・宮本武蔵のことばで、颯爽(さっそう)と立つ彼の姿が見えてくるようです。彼の人気も、そこにありと分析されています。『神仏を崇めて、神仏を頼まず』━━なかなか格好よく、雄々しく潔ぎよく響きます。
 ところがところが、同じ武者でも、わがダビデときたら、ただひたすら神に頼り、守ってください、救ってください、哀れんでください、なのです。あの武将ダビデともあろう者が何たるめめしさか……。神を崇めてもよいが、頼ることは勇士のなすべきことではない、━━そう言われますか。けれどもはたしてダビデは弱者でしたか。とんでもないこと。彼こそは、少年時代に、獅子を打ち倒し、身の丈三メートルの豪傑ゴリアテと一騎打ちに立ち、一撃のもとに倒しました。狂気のサウル王の追跡にいくたびか死線を越え、晩年には反乱に屈せず、王位を全うした不撓不屈、猛将、勇者だったのです。機会あらば武蔵と一騎打ちさせたかったサムライでした。その彼が、いつも主を拝する時には人目をはばかることなく、おのが無力、欠乏、弱体、不足を告白し、大地に伏して祈願したというのです。━━ここで確認したい。神を信じ、崇めるのみか、より頼むことは決して弱者ではないということです。」