2022.7.24みことばの光


 先週の祈祷会は「詩篇の愉しみ」17篇を学びました。1節でダビデは「正しい訴えを聞いてください。」と祈っていますが、それは自分が正しいことを祈っているから叶えてくださいと主張しているのではなく、祈りを聞いてくださる神様の前に正しくあろうとする願いと言えます。「これらは欺きの唇から出たものではありません。」という誓いも、真実の言葉を語ろうとしている意志の表明です。私たちはどんなことでも聞いてくださる神様の前に、心から祈りをささげるべきですが、しかし、自分の祈りが真実な祈りであるのか、自分を吟味しつつ祈ることは、答えを見る祈りになっていくために、大切なことです。祈りの中で誠実であろうとすることです。
 2節「ダビデはさばきが行われ?ますように。」と祈っています。祈りは告訴のようなもの、神様の答えは裁判の判決のようなものと、とらえることができます。私たちは裁判官ではありません。判断をなし、決定するのは神様です。私たちは、事実に従って訴えをなします。訴えに虚偽があれば、裁判に敗訴するでしょう。訴えが正当なものであれば、正しい裁判官は正しい判決を出すのです。地上の裁判の正しさには限界があるかもしれませんが、神の法廷に間違いはありません。私たちは偽りがなければ、熱心に正しい判決を求めて神様に祈るべきです。裁判は時間がかかるものです。手続きは正しくなされなければなりません。一方神様の裁きは、神様の定めた最善の時に答えが与えられますから、私たちは一層信頼して待ち望むべきです。神様は不正義を容認されるお方ではありません。3節では原告も裁判官によって調べられることが記されています。私たちは自分の祈りの正しさを、とことん吟味すべきです。
 主に信頼するダビデは8節「瞳のように私を守り、御翼の陰にかくまってください。」と主の守りを信じて祈りました。私たちのまぶたは驚くほどの機能をもって、意識するよりもすばやく反射神経によって瞳を守ります。申命記32:10には出エジプトのイスラエルの民を「瞳のように」守られた主のみわざが歌われています。主は「翼を広げて」ひなのようなイスラエルを運び導いてくださいました。私たちを「瞳のように」守り、「御翼の陰」にかくまってくださる神様に助けを求めて、新しい週も歩んで参りましょう。