2022.9.11みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇の愉しみ、20篇を学びました。この詩篇は王の詩篇、メシアの詩篇で、指導者のための祈りを教えられます。1節「苦難の日」とは出陣の備えの日のことです。王は神を礼拝し戦勝を祈願します。この礼拝が、主の御心にかなうものとなるようにと1-5節で民がとりなします。3節は、王の礼拝、王のささげ物、すなわち王の祈りが、神に受け入れられるものでなければならない、ということです。
 型通りの礼拝をすれば神は答えるといった魔術的なものではありません。王の計画が神の御心にかなってこそ、神は王に答えるのです。民が祈るべきは、王の計画が、神の御心にかなう正しいものとなるように、ということでした。7節には、この国の王が、戦車にも馬にも頼らない、主の御名にのみ依り頼むことが告白されています。神にのみ信頼する信仰が、王にも、民にも、求められました。預言者イザヤの時代はオリエントの戦国時代。ユダの王や民は国際政治の勢力図を眺めながら、どの国と同盟を結ぼうかと画策しましたが、イザヤが一貫して主張したのは、真の神にのみ信頼することでした。
 これを行ったヒゼキヤは、アッシリアの軍を奇跡的に退けます。それ以外の人間的な策を労した王たちは敗北し、ついに滅亡に至ります。信じがたい理想論に思えるかもしれませんが、万物の創造主、歴史の支配者、真の神に信頼するものは、最後に残るのです。テモテへの手紙第一の2章1節に「王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい」とあります。
 私たちは、教会の指導者のために祈り、地域、国、世界の指導者たちが正義を行い神の祝福を受けるものとなるようにと祈る務めがあり、祈ることができるのです。また真の王はイエス・キリストです。この地上にイエス・キリストの勝利が打ち立てられるようにと、私たちは祈る務めがあり、祈ることができるのです。