2022.6.26みことばの光
先週の祈祷会は詩篇15篇。この詩篇は神殿入場の問答歌です。イスラエルの民が礼拝のために神殿に入る際、礼拝者が「主よ、誰が、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。誰が、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」と問いますと、祭司が答えて「全き者として歩み、善を行い、心の中の真実を語る人。?」と応えるのです。このやりとりがあり、礼拝者の思いは御言葉によって整えられ、真心からの礼拝を献げる者とされるのです。実用的な讃美歌であり、私たちも招詞に用いてよいかもしれません。似たような問答は詩篇24篇3-6節にもあります。
「幕屋」は、礼拝の場所、客人のもてなしの場所の二つの意味がありました。エルサレムの神殿はユダヤの三大祭の時に巡礼客でいっぱいになりました。巡礼者は大切な祭りの時に故郷へ帰ったのです。今日の私たちは天の故郷へ帰る前味を日曜ごとの礼拝で味わっています。やがて来る天国での礼拝のリハーサル(事前練習)を繰り返していると言っても良いかもしれません。ですから、「宿るのでしょうか。住むのでしょうか。」という継続的行動の問いかけになるのです。日曜日に教会に来て終わり、ではないのです。やがて天の御国に永遠に住まう者となるために、ふさわしい振る舞いを身につけること、それが地上の礼拝における学びと訓練なのです。この訓練は月曜から土曜までの現地実習も含んでいます。2節「全き者として歩み」という言葉は、「丸ごと健全な者として歩み」という意味です。不完全な罪人の私たちがどうして「丸ごと健全な者」となれるのでしょう。主イエス・キリストの贖いによるほかありません。自分の罪を認め、心から悔い改める時、イエス様は救いときよめの恵みを与えてくださいます。私たちは新しく生まれ、初めて「全き者」としての歩みを始めるのです。初心忘るべからず。洗礼を受けた時の新鮮な喜びを、繰り返し心に憶えましょう。神の前に新しく生まれた者は、神の義(この世の流行や自分を基準とする義ではない)を基準としてそれを行う者の道を一歩一歩を進みます。「心の中の真実を語る人」。私たちは愛の神様の御前に正直になることを学びました。汚れと恥は消え去りました。いつも正直な思いで祈りのうちに神と語り、また正直な言葉で隣人と関わることができるのです。しかし唇は罪を犯しやすいものです。3節、否定の命令は、私たちに、注意深い言葉遣いをさとしてくれます。以下略。