2022.12.18みことばの光


 神様は私たちの信仰に応えて、試練を乗り越えさせてくださいます。詩篇30篇は、詩人ダビデが試練を乗り越え、救われたことを告白しつつ、さらに今日の助けを求めている祈りです。今日祈らなければならない私の必要がある。しかしその祈りを、これまでの経験を振り返りつつ始める1?3節に、まず教えられます。これまで助けられた。だから信じて祈る。
 過去の守られた記憶を振り返る祈りは、自分の信仰を暖め、燃え立たせます。信仰の兄弟姉妹にも賛美を呼びかける思いにつながる、それが4節です。そして5節はこの詩篇の中で最も美しい対比の言葉です。「まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」美しい言葉の中に、重要な意味が込められていることを見落としてはなりません。「御怒りは束の間」自分の過ちゆえに、神からの懲らしめを受けることがあっても、神はいつまでも怒っておられないのです。ダビデは幾つか罪を犯したことが聖書に記されていますが、その罪を指摘されると、素直に認め、速やかに悔い改め、神の取り扱いに自分を委ねました。失敗ゆえの災いにも出会いましたが、このようなダビデを神は、終生、神の国の王として祝福し、用いたのです。確かに「御怒りは束の間」でした。
 7節、主が御顔を隠すと「おじ惑う」、弱さを正直に曝け出していることも、ダビデの魅力です。先のサウル王のように、神の命令に背きながら言い訳をすることがなかったので、ダビデは間違いを犯しても神に立ち返ることができました。神様が喜んでおられない、というのに、堂々としらばっくれて生きているなら、強がっていても、私たちは祝福を逃してしまうのです。神によって生かされていることを確信しているダビデには、9節のような信仰もありました。「神様、わたしが倒れたとしても、それは、あなたにとって何の役にも立ちませんよね?(むしろ私を助けてくださってこそ、私を助けられるあなたの栄光が現されるのではないですか?)」少し、図々しいようにも聞こえる祈りですが、神様と約束を交わした私たちは、信仰者としてこのように祈ることができるのです。そして神のあわれみを求めるダビデは、12節、とこしえに神に感謝するものであり続けることを神の前に誓ったのでした。