2022.4.10みことばの光


先週の祈祷会は 聖書に聴く、詩篇69を学びました。詩篇69篇には「呪いの詩篇」あるいは「復讐を祈る詩篇」としての理解の難しさがあります。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言われたイエス様の教えに矛盾するように思われるからです。しかし呪いの詩篇、復讐を祈る詩篇の本質は正義が実行されるように、正当な権利が保護されるようにとの懇願の祈りが本質であり、そのことは新約聖書も否定していないことを考える必要があります。ルカの福音書18章には不正な裁判官であっても正しい裁きを熱心に求め続けるべきことが教えられています。詩篇において正義を求めるダビデの情熱は「本物」です。復讐心の代わりではありません。ダビデはサウルやアブシャロムに対する時、忍耐強く、寛容でした。シムイに対してもそうです。しかし、残虐で恥知らずな行動に対する怒りに駆られることはありました。ダビデの理想的な王権は、義をもって人を治める者、神を恐れて治める者だったのです。
 復讐を祈る詩篇として著名なものに109篇、137篇があります。「そのみなしごをあわれむ者もいませんように」「おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ」これらは、文字通りの処罰が肯定されるのではありません。これらは事実暴言であり、しかし誇張した表現によってしか伝わらない度を越した残忍な行為が行われたことへの怒りと悲しみを私たちに伝えているのです。詩篇は単に真理を解き明かす以上の独自の役割を持っています。私たちの魂に触れ、燃え立たせる役割。そんなひどいことを願っていいのですか、と思われるような箇所には、ゆえなく苦しむ正しい人の生々しい悲鳴があるのです。その言葉が生み出された背後に、どれほどの絶望があるか、私たちは読み取ることができるのです。ヨブは最後、知識も無く言い分を述べたと反省しますが、神は彼を真実を語ったと評価します。神様は正しい人の全体をご覧になりよしとしてくださるのです。エレミヤにおいてもそうでした。同様に詩篇の祈りは、激しいつぶやきも聖詩人の霊の歌として神の承認されたものなのです。
 また新約聖書の思想はさばきを捨て去っていないということも重要です。主イエスの到来自体、福音でしたが、主を受け入れないガリラヤの町々に対してはソドムやゴモラよりも重い罰がふさわしいとされました。(途中まで)