2022.10.30みことばの光


「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」エペソ人への手紙2章4?5節

 今日は宗教改革記念の主日です。宗教改革者マルチン・ルターは、1517年10月31日(ユリウス歴)『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルク大学聖堂の扉に張り出し、霊魂の贖宥(霊の救い)について意見交換を呼びかけました。それでプロテスタント教会は、この日の前の主日を記念の主日としています。宗教改革の諸原理は今日に至るまで重要な私たちの信条となっています。
 贖宥(しょくゆう)とは元来、聖地奪還のため十字軍に参加したものに与えられる免罪、罰の免除、軽減のことでした。ローマ・カトリックの信仰に過ぎませんが、十字軍という神のわざに参加した者には、罪の赦しが与えられるということでしょうか。従軍できない者は寄進をこれに代えました。その後も様々な名目で贖宥状は販売されることになります。
 16世紀、神聖ローマ帝国においてアルブレヒトは、ローマ教皇庁に多額の献金ささげて、複数司教位保持の特別許可を得ようとし、そのための収入を贖宥状販売の独占権でまかなおうとしました。贖宥状販売促進のために説教師が任命され、人々は自分と先祖の魂の救いのために、説教師の周りに群がり、説教に聞き入り、贖宥状は盛んに売られたのです。ここに至ってついに、宗教は完全に、人間の欲望による金儲けの手段に堕したのですが、そもそも何かの犠牲、何かの行いによって罪が赦されるということ自体、聖書には無い教えでした。
 これを『みことば』から再発見したのが宗教改革者マルチン・ルターなのです。彼は人がいかにして神の前に義と認められるかという問題を悩み抜き、聖書を調べ、「信仰によって、ただ神の恵みによって」という真理を再発見したのです。宗教は常に人間の欲望に利用される可能性があるといえるでしょう。しかし真の救いは、人の犠牲、人の行いによらないのです。なぜならイエス・キリストが私たちのために、罪の代価を完全に支払ってくださったからです。私たちは、ただ信仰によって、ただ神の恵みによって救いをいただくのです。