2022.8.21みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇18篇を学びました。この歌は王であるダビデによる賛美であり、メシア詩篇とも言われます。真の王イエス・キリストにおいて真実な賛美として成就した側面を理解する必要があります。私たちは真の信仰というものがどのようなものなのか、わきまえのない時代を生きています。この世の指導者が、自分の勝利の時に、神をたたえたからといって、それは自分の都合のいいように物事が動いたと解釈しているに過ぎない、そのような物の見方をしています。同じ目で、ダビデの王権や彼の信仰の言葉を、疑ってみてしまう愚かさがあります。しかし詩篇を正確に読み取るなら、彼がひたすら神に栄光をお返ししているということがわかるでしょう。

 20節「主は 私の義にしたがって私に報い、手のきよらかさにしたがって 顧みてくださいました。」ダビデは自分の正しさのゆえに主が報いてくださったと歌っているのですが、それは自分の正しさを誇っているのではないのです。王は神の前に正しくあるべき、そうあるなら神は報いてくださる、報いてくださったのだ。これからも王にとって重要なことは、神の御前にきよく正しくあることなのだ、と謳っているのです。王よりも神が上におられるのです。それは米国の大統領が就任のおりに、合衆国憲法を忠実に守る宣誓を行うことに似ています。聖書に手を置いて誓うその姿はキリスト教国らしい印象を与えますが、実際には大統領の信仰によって微妙な違いがあります。「憲法の命ずるところに忠実な大統領の職務を祝したまえ」という祈りが背後にあるともいえるでしょう。

 そのような観点からこの詩篇を眺める時に、民のうちの立てられた指導者が、神に栄光をお返ししているという信仰の姿勢が神の民に祝福をもたらす、そのような共同体の在り方を教えている詩篇ということがわかるのです。教会の牧師が神に栄光をお返しせず、自分の信仰深さや霊的な賜物で成功しましたと考えているようなら、教会は悲惨です。その点でダビデは歴史上稀に見る神の国の指導者でしたが、彼にも欠点はありました。完全に神の前に義の王として務めを全うしたのは主イエス・キリストお一人だったのです。私たちの上には真の王、教会のかしらなるイエス・キリストがおられる、それが私たちの「この上ない幸い」なのです。