2022.11.20みことばの光
「主は私の光」詩篇27:1。光とは、聖書の中で、あらゆるポジティブなことを象徴しており、真理、善、喜び、生命、力などの比喩として用いられますが、この詩篇に限って言うならば、「恐れと悪の勢力に対する解答」と定義できます。すなわち主が信仰者の光となってくださるということは、主によって恐れは克服され、敵に向き合う力が与えられるということです。
その通りに詩人には危険が迫っていました。2節は肉食獣が獲物を求めて狩りを行う様子に喩えられた信仰者の敵の姿です。しかし「崩れ落ちたのは?私の敵であった。」普通の文なら「私の敵は崩れ落ちた。」ですが主語の倒置によって身を滅ぼしたのは私ではなく私の敵であったということが強調されています。ただしこれは過去の経験であり、詩人は今は試練の中にいます。3節「私に対して陣営が張られ」「戦いが起こっ」た経験を、ダビデが、エリシャが、モーセが、イスラエルの民が経験しました。詩篇27篇は現実の強力な敵に対して信仰によって立ち向かう詩篇です。そのための力はどこから来るのでしょう。
それはたった一つのことに集中することです。4節「一つのことを私は主に願った。?主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思い巡らすために。」ここで言う「住む」とは、神との交わりを持つことです。ダビデの生涯には大きな試練が2度ありました。サウル王に命を狙われた時代、そして王となった後、息子アブサロムの謀反によって都落ちした時代、どちらも大変な困難を経験しましたが、逆境のダビデを支えたのは、やがて平安の時が与えられ、心ゆくまで神を礼拝する幸いにあずかることだと、その幸いの思い巡らしによったのです。私たちも、試練が過ぎたら、楽しいことをしよう、と思い描くことで自分を励ますことができますが、ダビデにとってそれは礼拝でした。人の心には、神によってしか埋めることのできない空洞がある、と言ったアウグスチヌスの言葉が思い出されます。幸いの日を夢想するダビデの思いは6節で頂点に達し、彼は試練の最中に、ほめ歌を歌うことになります。しかし現実は深刻。8節、主が語ってくださらないので、主に代わって、自分で信仰を奮い立たせる言葉を口にするのです。13節では、信仰に立てない状況すら想定しています。「主のいつくしみを信じていなかったなら、、、。」この最悪の状態が、彼を信仰の言葉にとどめるのです。