2022.5.1みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇9篇。数え方がプロテスタント教会とローマカトリック教会では異なります。ローマカトリックは旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳、ラテン語訳ヴルガタにより9篇と10篇を一つの詩篇と考えますが、プロテスタントではヘブル語聖書に基づき別々の詩篇と考えます。10篇に表題が無いことは二つが一つの詩篇である可能性を支持しますが、内容は10篇1節で変化しているので、補い合う二つの詩篇として理解すべきでしょう。9篇は正しい審判者である神の勝利、10篇は栄えるように見える悪者の姿が歌われています。
 野田秀先生は9篇に頻出する「国々」という言葉に注目しています。それは真の神を受け入れようとしない国々のことでまとめると四つのことが言われています。1神の怒りの対象(5節)、2神のさばきの対象(8節)、3宣教の対象(11節)、4祈りの対象(20節)。神を忘れるあらゆる国々(17節)とは、自分達が神に造られた人間に過ぎないことを忘れ、自分自身があたかも神であるかのように振る舞っていることです。それで「国々は自分で作った穴に陥り、自分で隠した網に足を取られる」(15節)のです。野田先生は日本も「神を忘れた国」の一つであると言います。戦後、驚異的な経済発展、技術発展を遂げたが、それに溺れ、神を恐れることを忘れた。原子力発電所の問題などもそうではなかったか、と。かつて福島県双葉町商店街に掲げられた看板の言葉が思い出されます。「原子力 明るい未来のエネルギー」。撤去されて6年になりますが、今なお原子力が多くの人々に暗い影を落としている現状はなんとかして乗り越えたいものです。
 詩篇9篇において詩人の心境は13節で初めてほのめかされます。苦しみの中にあるのですが、まず先に、主への感謝、主ご自身を喜び誇り、御名をほめ歌いながら祈りを開始しています。「主は正しい訴えを聞かれる」(4節)方と確信しているからです。そう信じて告白する祈りが、現状の苦しみと戦う力になるからです。信仰に立つなら18節「苦しむ者の望みは永遠に失せることがない」のです。苦しむ者の「悩み」ではなく、「望み」が永遠に失せないのです。「虐げ」や「苦しみ」は存在します。しかし「義の審判者」に期待して、正しいさばきを行われる主の介入を待ち望むものとなりましょう。