2022.5.15みことばの光
先週の祈祷会は詩篇10篇。9篇は神の審判が行われる未来を信じる詩篇。10篇は未来を信じつつ、悪が横行する現在の現実を見つめる詩篇という対称になっています。祈りの内容は個人的というよりは世界を視野に入れ、虐げられている弱者のために祈る祈りです。私たちは詩篇の祈りを通して、自分のための祈りだけでなく、周りにいる苦しむ人たちのための祈りを教えられるのです。悪者の驕り高ぶる様は、見ていて気持ちの良いものではありません。しかし詩篇はそれらをしっかりと見つめ神様に訴えています。それも祈りなのです。2節、悪しき者の高ぶりは、彼らが自分の企みに捕らえられる理由になります。高ぶる者は高ぶりのゆえに、自分の計画の中で自滅するのです。しかし3節、悪者は自分の欲望を誇り、主を侮り、「神はいない。」とうそぶいている。神を信じない社会は私たちに身近ですから、よくわかるのではないでしょうか。正義の神がおらず、終わりの日のさばきもないとしたら、自分の好きなように生きて何が悪い、ということになりかねないのです。7節は悪者の武器である口がどのような働きをするかのリストです。呪い、欺き、虐げ、害悪、不法。口先の達者な悪者が、平気で嘘を語り、弱い者を傷つけている、まさに今の時代そのものです。私たちは悪者の口にする偽り言葉に負けてはならないのです。その嘘を偽りとしなければなりません。しかし現実には8、9節にあるように、悪者こそ計画的で用意周到なのです。10節で、不幸な人は、そもそも苦しんでいるというのに、罠にかかり、砕かれ、崩れ、倒れてしまいます。私たちはこのような現実にうんざりするばかりではいけません。このような悲惨さこそ神様に訴えるべきなのです。11節「神は忘れているのだ。?永久に見ることはないのだ。」というのは悪者の考えです。彼は神を否定しながら、神の存在が気になっているのです。無神論は虚勢にしか過ぎず、本当のところ神を恐れているのです。このような侮りこそ、神の嫌われることです。詩人は12節「主よ、立ち上がってください。」と祈ります。その祈りの中で14節、じっと見つめておられる神様の姿が見えてきます。この詩篇は具体的な答えに到達していません。しかし弱い者が「心を強く」し(17節)、人におびえさせられないことを求めて祈りを閉じます(18節)。それが信仰に堅く立つこと、悪に打ち勝つ道だからです。