2022.5.22みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇11篇。1から3節は信仰に立とうとしながら葛藤しているダビデの祈りです。1節、主に私は身を避ける。主を危険からの避難場所とするのだ、と彼は信仰に立とうとします。しかしそれとは異なる助言が聞こえてきます。実際に助言者がいたのか、彼が自問自答しているのか、聖書原文から判別はできませんが、彼の心には葛藤があり、それを祈っています。「鳥のように、自分の山へ飛んで行け」つまり「逃げろ」ということです。2節「悪者」が「人を射抜こうとしている」から。3節、拠り所が壊されたら、正しい者に何ができるだろうか。敵対者の攻撃、中傷を防ぐ手立てはない、だから問題に向き合うことはやめて、逃げろという助言が彼の心を占めます。しかしそのことをそのままに祈っていく時、信仰の思いが深められ、役に立たない助言は退き、霊的な現実が見え来ます。
 「主は、その聖なる宮におられる。主は、その王座が天にある。」ダビデの拠り所なる主は、天の高みにおられるので、敵がそれを破壊することはできないのです。さらに主は天におられて、地上に関わらないのでなく「その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。」主の助けがないように見える時も、主は働いています。正確なさばきを下すために、調べているのです。(主が真実を知るのに時間が必要ということではありません。)主の調査は平等で公平です。しかも明白な判断を行います。5節「主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む」。暴虐は主の嫌悪の対象です。私たちは暴虐が行われている報道に悲しみ、怒り、絶望しますが、審判者なる神がすべてを調べて、さばきを下すことを信じ期待すべきです。そのことを祈り待つのです。6節、主は悪者どもの上に網を下す。罠は誰も予期せぬ時に悪者を捕らえるので、信じて待つ必要があります。「火と硫黄、燃える風が彼らへの杯」。火と硫黄はソドムどゴモラに下った裁きの記憶です。熱風が彼らへの杯とは、悪者の受けるべき報いが定められているということです。詩篇の言葉は時に辛辣です。悪に対するさばきは深刻なのです。そして詩人は主のご性質、主の愛に憩いを見出し、愛されている子供が親を信頼して見上げるように、何の疑いも抱かずに神の御顔を仰ぎ見る平安に満ち足りるのです。これが祈りの結実です。