2022.4.17みことばの光


 先週は「呪いの詩篇」あるいは「復讐を祈る詩篇」についての学びが途中まででしたので、続きを。容赦ないさばきの宣告も、条件付きのものがあります。ヨナ書3章ではニネベの町にさばきが宣告されますが、彼らが悔い改めると、さばきは撤回されます。神の言葉は真実ですが、悔い改めない者にさばきは下り、悔い改める者には憐れみが示されるのです。

 「呪いの詩篇」「復讐を祈る詩篇」について繰り返し理解されなければならないことは、「正しいさばきを懇願する祈り」は神に受け入れられるということです。黙示録6章10節「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」という殉教者の祈りが記されています。これは神に受け入れられる祈りです。現実、不条理の存在するこの世界において、私たちは正義を信じるゆえにこの種の祈りをやめることはできないのです。そう祈り、神様の正しい答えを信頼して待つべきなのです。

 ヘブル人への手紙10章26節には罪にとどまり続ける者へのさばきがはっきりと警告されています。モーセの律法を拒否する者、さらに神の御子を踏みつけ、御霊を侮る者は重い処罰に値すると言われ「復讐はわたしのもの」と結ばれます。

 このことから聖書は単純に復讐を肯定しているのではないということも読み取るべきでしょう。「復讐はわたしのもの」であるから、人は早まって間違ったさばきをしてはならないのです。自分が間違った裁きをすることから守られるためにも、裁きを神に求めて、祈りつつ委ねることが必要になります。物事の判断において、謙遜さは大切です。物事をわきまえていないために、広い視野でとらえなかったために、狭い考えで苛立ち、人を裁いてしまうことがあります。「私はこう思うけれど、神様、あなたはどうお考えになりますか」という謙遜な祈りの訓練が私たちには必要です。思いのままに祈ることを通して、祈りは練られた言葉に導かれます。不正な者への正しい裁きを祈る時にも、私たちは、悪者が悔い改めて、神の憐れみを受ける者と変えられることを求めることもできます。私たちはすべての人の幸福を求めて祈ることができるのです。

 詩篇は正義の神に信頼して、世の悪に絶望せず祈ることを教えています。絶望するような時にも祈り、神に信頼し、待ち望むことを教えているのです。