2022.11.13みことばの光
詩篇26篇には礼拝者の健全な自己意識があります。世相に流されやすい「わたし」の自己意識と比較してみるとずいぶん違うことに気付かされます。1節「主よ、私を弁護してください。」というダビデの祈りは、心の内か外に、批判の声を意識しています。しかし彼は自分の歩みについては、ある程度の自信を持っています。「私は誠実に歩み、揺るぎなく(牧師私訳)主に信頼しています。」主と共に歩む信仰者は堂々と主の前で祈りをささげる、これは模範です。ただし、それで十分ではありません。2節「主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。」私は精一杯信仰の道を歩んでいる。しかし基準は私ではない。神様が私を調べて、良しとしてくださるかどうか、そのことを問いかける必要がある。
4-5節は詩人の生活の選択を示しています。詩篇1篇にあるような幸いな道と悪者の道のどちらを選ぶか、です。詩人は悪者と共に「座らず、行かない」。原文では完了型と未完了型の動詞が用いられ、現在の態度の決定とこれからもその姿勢を維持し続けることが誓われています。
6-8節は、律法通りの礼拝が、個人的で生き生きとした喜びの時に変わる様子を描いています。6節の1行目は律法の定めに従って手を洗うのですが、祭壇の周りを行進しながら、感謝の賛美を歌うことになります。日々の生活を守られる主への感謝は、決して決まり文句に終わりませんから、日毎に新しい喜びの賛美となるのです。8節はこの詩篇の中心ともいえる詩人の心のもっとも深いところにある告白です。「主よ、私は愛します。あなたの住まいのある所を。」住まいのある所とは、主が共にいてくださる場所、という意味です。出エジプトのイスラエルの民の荒野の旅路では天幕がそれであり、ソロモンの時代に神殿に代わります。他方新約聖書ヨハネの福音書1章は、人となられたみことば、イエス・キリストが、まさに私たちの間に天幕を張られた、共に住むものとなってくださり、栄光を見せてくださったと言います。
信じる私たちは、今、どこにいても、聖霊によって、イエス・キリストと共に歩むことができます。聖霊によってイエス・キリストは、私たちの心のうちに住み、栄光を現してくださるのです。12節「平らな所に立ち」「主をほめたたえる」幸いにあずかりましょう。