2022.9.25みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇の愉しみ、22篇を学びました。22篇も王の詩篇、メシアの詩篇です。この詩篇に綴られたダビデ王の苦悩が、私たちの主イエス・キリストの十字架において、ことごとく成就しているからです。イスラエルの王となったダビデが、その人生の中で、これほどまでの深い苦悩を経験したその内面を知らされると同時に、イエス様の受難は、父なる神様の答えを見ることになり、最後には真の王の支配が世界に広がることとなったのです(22:27以下)。詩篇の冒頭は、神様の不在に対する嘆きで始まりますが、結びは、主が義を行われたことに満足して終わります。主は、どのような試練をも乗り越えさせてくださり、私たちを心からの賛美に導かれる方、そのご計画を信じる者となりましょう。
 1節「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」主イエスが十字架で叫ばれた言葉です。救い主は私たち人間の罪をすべて背負い、神に呪われた者となって十字架で死んでくださいました。まさに、神に捨てられた者となったのです。一方、ダビデの場合は、神様の助けを信頼するからこそ、今、助けが見えないことに対する戸惑いの叫びでした。義人ヨブもなんら罪を犯していないのに災いに襲われ「なぜ」との問いを神に叫んだことでした。私たちは災いの時に自らを反省すべきですが、しかしこの世の中には、一見不条理と思えるようなことも起きてくるのです。そんな時、主を信じるからこそ、主に問いかける、そのような祈りがあり、その祈りは答えに出会っていくのです。
 以下、22篇は、祈りと信仰が交互に繰り返されて、21節1行目の切羽詰まった祈りで頂点に達しますが、その瞬間、主の答えが与えられ、21節2行目から後半の賛美に変わります。苦難の詩篇22篇は、祈りに答えてくださる神様を証ししているのです。