2022.6.19みことばの光


 先週の祈祷会は詩篇14篇。パウロがローマ3章で引用している詩篇ですが、引用は「義人はいない。一人もいない。」という言葉で始まっており、少し異なっています。パウロは、全人類の堕落を当然の理解としているようです。しかし詩篇の詩人は、自分の周辺を見渡す中で、忌まわしいことを行っている人が、事実、目に入ったのではないでしょうか。そして洞察を深め、その人の心の中に「神はいない」という考えが巣食っていることを聖霊に教えられたのでしょう。無神論を常識とする日本人には納得しにくい言葉かもしれません。しかし創世記の人間論を理解の土台に置くならば、詩篇は真実な洞察となります。
 詩人は地上を見渡すだけでなく、天を見上げ、神様の視点に立ちます。すると、1節以上の悲惨な状態が見えて来ます。「すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。」まさにエデンの園から追放された人類の姿です。
 神から離れて無用な者となった私たちは、神に立ち返る時に有用な者とされます。キリストを信じ、神に立ち返った者は、誰の役に立たなかったとしても、今日生かしてくださる神様に感謝するとき、神の栄光を現す尊い働きを為す者となります。
 4?6節はこのような世界に、悪者と正しい一族がいると言います。全貌の詳細はわかりませんが、不法を行う者は、自分でそうとは思わず、神の民を食い物にしています。自由主義経済は、神の見えざる手が働いていると言われますが、一方で、格差社会の拡大、搾取が、見えないかたちで、貧者を虐げる富者という構図を生み出しています。公平な社会は、私たちが意識して求めなければ失われるのではないでしょうか。そして、神様は食い物にされている正しい人々、苦しむ者と共におられるのです。私たちは注意しなければなりません。神様は踏みにじられようとする人の避け所となり、守ってくださるからです。このような理解に立った祈りが7節です。詩人は「御民が元どおりにされるとき」を信じました。罪を犯した人間の罪が赦され、神の子どもの身分を回復するときは来るのです。人間も世界も天地創造の麗しさを回復する時が来るのです。その時に楽しみ喜ぶことができる。そのことを信じつつ歩むための祈りがこの詩篇なのです。