20.12.20みことばの光
先週の祈祷会は「イザヤ書を味わう」。43章から48章、そして第二のしもべの歌(49章1-6節)を学びました。42章18節以降、どこまでも心をかたくなにして良きおとずれに耳を傾けないイスラエルの姿が描き出されますが、43章では、このような背信のイスラエルを、神はなお愛しておられることが示されます。それは一方的な神の配慮によります。有名な4節の言葉もここにあります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
驚くべき約束のことばの根拠は、神ご自身の中にのみあることが繰り返し記されています。43章3節「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」44章6節「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう言われる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。』」初めであり終わりである、これは黙示録にも繰り返されています。
そしてこの神の存在と対照的なのが偶像の神であり偶像礼拝の愚かさです。44章9節「偶像を造る者はみな、空しい。」11節「それを細工した者が人間にすぎないからだ。」そして主が用いられるキュロス王が登場します。45章1節では「彼」と紹介されていますが、2節から「あなた」と二人称で語られています。1節は第三者キュロスの紹介、2節以降は主からキュロスへの語りかけです。46章3,4節は、晩年のイザヤがこの御言葉を聞いたことを想像すると「年をとっても背負う」と言われる主の愛がよりいっそう伝わってきます。
49章からは救いの計画の実行の部分に入ります。その最初が第二のしもべの歌です。しもべ自身の歌ですがしもべが誰なのか、断定できないことを思い巡らすことも大切なことです。