20.7.19みことばの光
祈祷会2020年7月16日(木)
『イザヤ書を味わう』第三章人間の顔が見える読み方 p.81より
先週はイザヤ書7章の学びに入りました。6章はウジヤ王の死んだ年のことですから、その後ヨタムの治世を数えるとアハズ王の登場する7章まで少なくとも16年経過していることになります。初期預言が二十歳頃から四十歳頃と言われる所以です。
南ユダ王国は北イスラエルとアラムの連合軍に攻められます。二国連合の噂を聞いた人々の心が林の木々のように揺らぎます。これをイザヤは「ダビデの家」に知らせがもたらされたと言います。どんな時にも主に信頼したダビデ王、その血を継ぐ南ユダ王国であるというのに、動揺するとはふさわしくない、そのようなメッセージが汲み取れます。
イザヤにアハズ王との面会が命ぜられます。上の池の水道の端に王は籠城に必要な水源を確認しに出てきているところでした。しかし向かうべきは神だったのです。
長男シェアル・ヤシュブの名の意味は「残りの者は帰って来る」。主の裁きが現実化すること。しかし、その後に恵みの救いが残されること、だから主により頼めと主は言っておられる、アハズ王にも理解できるメッセージでした。しかしアハズは見せかけだけの謙遜で主にしるしを求めることもせず、その時イザヤの口を通して有名なインマヌエル預言が与えられたのでした。
「処女」と訳されているアルマーは聖書の他の箇所では「おとめ」となっています。ここを処女と訳せるかどうか問題になる箇所です。紀元前3世紀頃に成立した旧約聖書のギリシャ語訳「七十人訳聖書」は明確に処女を意味する訳語を充てています。古代のヘブル語に精通した人々にとってこの箇所は明白に「処女」と理解されたことを推測することができます。