20.11.15みことばの光


 先週の祈祷会はイザヤ書を味わう。第四章、老人イザヤの預言を学び始めました。イザヤ書40章以降です。この箇所は1-35章と文体が異なるため、イザヤとは別の著者を想定することが長く学界の傾向となっています。しかし福音的な学者たちは、同じ著者であっても違う文体を用いることはありえるとし、イザヤ書も状況の変化のゆえに文体は変わったと理解します。

 これまでのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代は、常に歓迎されていたわけではないにせよ公の説教は可能。その記録が1?35章のリズミカルな散文に現れています。いわば「説教の記録」の文体。それに対してかつてない悪王マナセの時代は「警察国家」が到来。列王記第二21:16に「マナセは?咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」と書いてあります。この時代、今や、老練の預言者となったイザヤは執筆活動に専念し、イザヤ書40章以降は、彼の文学的力量の注がれた産物となったのではないか。

 ヒゼキヤが死んでマナセが王位に着く頃、イザヤは70歳後半から80歳になろうとしていました。当時、王の平均寿命44歳に比較して、イザヤは長寿でした。身体的、精神的な衰えが現実となっている。しかし、老人イザヤにまったく新しい世界が開けます。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(40:28-31)移りゆく時代を経験し、諸国の栄枯盛衰も預言したイザヤだけに、「主」を待ち望む者は新しい力を得る、と語った言葉に重みがあります。彼はまた46章4節で「あなたが年をとっても、あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」との主の御声を聞いています。彼自身、主に背負われていることを実感していたのでしょう。