20.12.13みことばの光
先週の祈祷会は「イザヤ書を味わう」。第一のしもべの歌(42:1-9)を中心にその前後40章から42章までを学びました。
イザヤ書40章以降は近年聖書批評学によってイザヤ著作説が否定されていますが、私達福音派は伝統的な理解に立ちイザヤが書いたものとして解釈します。そうでなければ読み取れないメッセージがあるということを、鍋谷先生は最新の学説、研究を踏まえた上で語っておられるので貴重な学びです。それでイザヤ書40章以降の歴史的背景は、学説の主流派が主張するようなバビロン捕囚期ではなく、ヒゼキヤ死去後のマナセの治世ということになります。列王記21:16「マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目の前に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」マナセは自分に従わないもの、反論を述べるものを容赦せず、粛清するような王であった。弾圧の時代であり、イザヤも公の預言活動の形跡がありません。執筆活動に専念したと推測されます。
共に祈りつつアッシリアに立ち向かったヒゼキヤ王が死去した後、預言者イザヤは晩年を迎え、彼自身の肉体の衰えも覚えていたに違いありません。当時の人々の平均寿命よりはるかに長生きしたイザヤが晩年に40:31のような預言を取り継いだのですから、イザヤ自身が御言葉に力付けられていただろうリアリティーがあるのです。また40:1「慰めよ。」とのメッセージは、捕囚からの救いだけを預言しているのでなく、その先の救い主の登場と贖い、復活のみわざの成就まで含まれる大いなる希望が、暗闇の圧政の時代にイザヤに与えられたということを意味します。
自分の生きている間に見ることのできない神のみわざがあるということが、むしろみわざを見ずに地上を終える信仰者を励ますということがあるのではないでしょうか。歴史を支配しておられる神に信頼し、自分の務めを果たすものとなりましょう。