20.10.4みことばの光
先週の祈祷会は”聖書に聴く”。ゼカリヤ書12章を読んで教えられたことを分かち合いました。ゼカリヤは神殿再建期の預言者。ゼルバベル、ヨシュアと共にエルサレムに帰還した祭司、レビ人の名簿に、祖父イドを見ることができます。(ネヘミヤ12:4)そして大祭司エホヤキムの時代に祖父の職をついで一族のかしらとなりました。(ネヘミヤ12:16)父親は早逝したようです。ハガイと同時代の預言者。ともに帰還民の神殿建設を助けました。(エズラ5:1,2)12章は1~9節と10~14節の2つの部分に分けられます。前半はエルサレムが「よろめかせる杯」とされることが語られました。それは「飲む者を滅ぼす神の怒りの器」とされることを意味しています。またエルサレムは「どの民にとっても重い石とする」(3節)、と言われます。再建された神の都エルサレムは特別な使命を帯びた存在でした。しかし何のことを指しているのか難しい箇所でもあります。
10~14節はイエス・キリストを通してエルサレムで実現しました。「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、?その者のために激しく泣く。」(10節)エルサレムの住民が誰かを殺すのですが、殺した人のために泣く、不思議な預言でした。
預言は実現するまでは不可解なところがあるのですが、実現してみるとその通りであったということがよくわかる、そのような性質があります。イエス・キリストは救い主であるというのに、選びの民イスラエルが彼を十字架につけて殺します。しかしペンテコステの日に聖霊が注がれてペテロが説教すると、エルサレムの人々は、犯した罪の罪深さを示されて悔い改め、信仰に導かれます。「恵みと嘆願の霊を注」(10節)がれた結果でした。終わりの3節では「ひとり嘆く」という言葉が繰り返されます。原語では”レバッド”、「それ自身によって嘆く」。ゼカリヤは、集団的回心でなく、個々人が深く理解し悔い改めに導かれる日が来ることを預言していました。