20.11.8みことばの光
先週の祈祷会は御言葉に聴く。午前はエペソ人への手紙6章を読んで教えられたことを分かち合いました。エペソ人への手紙6章について、東京基督教大学の初代学長、丸山忠孝師が著書『十字架と桜』の結びで紹介していますので、引用いたします。
〜本論考ではこれまで、日本におけるキリスト者の自我の確立、受難や殉教、転向や背教、キリスト者の歴史認識や自己認識、「日本人キリスト者」から「キリスト者日本人」への意識変革、「内なる日本人性」との対決などの主題との関連でキリスト者の信仰的決断について触れてきました。ちょうどテサロニケ伝道において市民がパウロ一行を「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています」(使徒17:6)と言ったように、日本におけるキリスト者が「抵抗者」として証しし、行動する場合には、テサロニケ人の叫びはこだますることになります。過去において、キリシタンが、また、戦前のキリスト者がしばしば問われた「キリストかカエサルか」という極端な信仰の決断が迫られる状況が再び来ることはない、とはだれも言うことができません。その決断はキリストの審判において判定を受けることになります。この信仰決断との関連で問われるものが「神の武具」の教えです。エペソ人への手紙6章は「私たちの格闘は血肉に対するもの」(12節)ではないとした上で、「神の武具」を具体的に表現します。帯、胸当て、足備え、盾、かぶと、剣の武具がいずれも防御装具(「剣」も短剣)ですが、さらに二つの点が注目されます。通常武具とみなされない「祈り」がリストに加えられていること。そして私たちにとって「剣」は護身用の短剣であっても、キリスト者・教会を護るキリストは同じ神のことばでも攻撃用の大剣を帯びていることです。(ヨハネ黙示録1:16,2:12)黙示録1?3章にはローマ帝国内の教会を象徴する「七つの教会」とそれらの教会を護り、尋ね、語りかける「栄光のキリスト」の黙示的イメージがあります。キリストの持つ剣はローマの兵士が肩にかついで使う攻撃用の大剣です。神のことばという大剣をもって語る栄光のキリストに護られて私たちは信仰の戦いを戦い抜くものなのです。