2021.12.19みことばの光
先週の祈祷会は「詩篇の愉しみ」。第6篇を学びました。ティンデル聖書注解著者のデレク・キドナー氏はこの詩篇を「祈る勇気がほとんどない者に祈りのことばを与え、勝利が見えるところにまで導いていく。」と解説しています。また野田秀先生は「衰え」を自覚した人の神への叫びとしています。2節の「骨」3節の「たましい」は詩人の体も心も、人格の何から何まですべて非常な恐れおののきの中にあったことを物語っています。祈りの口調はこれまでの詩篇と比べても弱り乱れているように感じられます。しかしだからこそ信仰の弱い私たちを導く力のある詩篇となるのではないでしょうか。
祈りの背景はこれまでの詩篇と同様ダビデがアブサロムから逃れた時と思われます。息子の反逆はダビデの身から出た錆でした。それゆえに彼は良心の呵責を覚え、神の憤りを自分自身へのこととして受け止めています。神ご自身が遠く離れてしまわれても仕方のない自分。だから、ただ「恵みのゆえに(4節)」救いを求めるしかないのです。5節、私が死んで滅んでしまったならあなたを礼拝することができなくなってしまうでしょう。それは神様にとっての必要ではありません。しかし神様は私たちの礼拝を求めておられるので、私たちが信仰を失わないこと、滅びないこともその目的にかなっているのです。詩人の寝床は涙で漂うほどです。涙は大水となって溢れており、詩人は弱り果てます。
しかし祈りは神への信頼に突然接近します。(嘆願を主題とする詩篇のほとんどがそうであるように。)この急接近は、神から答えがあったと確信していることを雄弁に証言しています。そのことに気づいた歌い手の顔が輝いている様子が見えるかのようです。7節と8節の祈りの調子は全く変化していますが、この行間に「主が聞かれた(8節)」主の答えがあったのです。
この詩篇は「主よ 帰って来て 私のたましいを助け出してください」と祈るほどに、神様からの距離を感じる意識から生まれた祈りです。イエス様の十字架上の祈りにも通じる霊的な闇があります。しかしそんな時こそ、自分のそのままの状態を神に告げる祈りから始めることを教えられます。