2021.4.11みことばの光


 先週は『イザヤ書を味わう』の第六章新しい民を学びました。イザヤ書は53章、第四のしもべの歌においてクライマックスに到達し、その後の54章から66章は、しもべの代償的な死に基づく「新しい民」のメッセージとなります。53章で驚くべき主のしもべが自分の命を贖いの代価としてささげたゆえに「新しい民」は贖われて神と共に歩む民として新しく出現します。そのことは54章以降すべて複数形で用いられる「エベド(しもべ)」という言葉からも推察することができます。この預言は主イエス・キリストにおいて実現しました。私たちは主の苦難の十字架があったからこそ、新しい民、キリストの教会として神の恵みを受けて歩むことができる存在なのです。パウロはガラテヤ人への手紙の4章でイザヤ書54章1節を引用して語っていますが、それはキリスト教会とユダヤ教の会堂(シナゴグ)を区別するもの。古い律法が廃棄され、新しい律法による新しい民のことを語るものなのです。

 「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」(イザヤ書54章1節)

 54章には神の呼びかけが多く記されています。55章にも11回の呼びかけがあります。新しい民は神の呼びかけによって目覚めさせられることがなければ絶望的なのです。しかし苦難のしもべの代償的な死によって、不可能が可能になります。絶望的な状況から立ち上がることができるようになります。この世の状況の行き詰まりの中で、新しい民は神の国の無限の可能性に目を開かれ、みことばによって示された新しい幻に向かって進むものなのです。

 8章17節には御顔を隠しておられる主に望みを置く希望が語られていましたが、このことが過去のことになります。54章8節「主は御顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。」と言ってくださるからです。