2021.5.16みことばの光
先週の木曜日は「イザヤ書を味わう」のp.214偶像礼拝の古い民(57章)を学びました。
全体は、56章9節から続く自己中心の道を行くユダの指導者たちに対する批判の言葉です。1、2節ではこのような悪い時代に天に召されて行く正しい人の最期が、多くの人に顧みられないという一見残念に思える有様の根底にある神様の慰めが述べられます。正しい者が問題の解決を見る前に地上の生涯を終えるのを見ると、私たちは失望するものです。しかし、神様は正しい者がひどいわざわいを見ることがないように、早く天に召されることがあるのです。2節「その人は平安に入り、?自分の寝床で休むことができる。」主にあって死ぬ者は幸いなのです。神様が天の御国に迎え入れてくださり永遠の幸いを得るからです。イザヤもユダ王国の滅びを予期しつつ王国滅亡の前に天に召されることとなりました。
3節からユダ王国が偶像礼拝と性的放縦、堕落に身をやつす姿がはっきりと描かれ、非難されています。「ここに近寄れ。」とはイザヤが論争をしかける時の決まり文句です。列王記第二によるとアハズもマナセも「自分の子どもに火の中をくぐらせる」モレクの偶像礼拝に関わりました。偶像礼拝の罪は物言わぬ神を神と崇め、結局自分の欲望を神とする過ちです。これだけの犠牲を払ったのだから私の願いを叶えてくれ、という自己中心なのです。今日、宗教の形を取らずとも、親が子どもを自分の欲望の犠牲にする悲劇を耳にすることがあります。形を変えた偶像礼拝、人身供具といえるでしょう。人が己の欲望を神とするとき、弱い者の命が犠牲となるのです。
しかし13節の後半から、主に身を寄せる者に救いが現される希望が語られます。14節はバプテスマのヨハネの登場預言と等しい「道を整えよ」とのメッセージです。神様は必ず救い主をお送りくださるのです。15節16節は至高者、永遠者、聖なる神が、砕かれた人、へりくだった人とともに住んでくださるという神様の驚くべき救いの奥義を告げています。必要なことは砕かれてあること。自分の乏しさを知っていることなのです。19節には、神の平和が、異邦人にもユダヤ人にも与えられる日の到来が予告されます。イザヤの見た幻は新約聖書の時代、使徒の働きにおいて次々と実現し、信じる者が分け隔てなく神の恵みを受ける時代が到来したのでした。