2021.3.28みことばの光


 先週の祈祷会は久しぶりに『イザヤ書を味わう』を読み進めました。第三のしもべの歌(p.170)から学びました。聖書はイザヤ書50章4-9節です。

 最初に主たる二つの解釈が記されています。ドゥームの解釈は文献批評学的な立場の見解で、本文を文脈から切り離す、イザヤとは異なる著者によるとする仮説に基づく理解。もう一つは宗教改革者カルヴァンの伝統的な見解で、著者をイザヤとみなしますが、「直線的にキリスト論的に解釈することに反対」しています。

 特に50章6節などは、十字架のイエス様を予言した言葉として理解しがちなのですが、そもそもはイザヤの言葉、イザヤの経験であり、そして、そのことがイザヤ以前の預言者、イザヤ以降の預言者に共通する主のしもべの姿。その究極に、まことのしもべとしてのイエス様がおられるということを丁寧に理解することの大切さを教えられました。

 またしもべの歌の前の文脈を読みますと、主のしもべであっても、不平、疑い、不安をもらす神のしもべイスラエルの姿が描かれており、これに対して、神の側からの強い確証と励ましの一連のメッセージも綴られています。そして苦しみを背負う別のしもべの姿が次第にあらわれる。

 50章4節には、疲れた者を励ますしもべの務めが記されていますが、人々を教える前にしもべ自身が神に呼び覚まされ、耳を開いていただき、弟子のように聞いて働きに召されます。モーセがそうであり、ヨナもエレミヤも、そしてイザヤがそうでした。背中を打たれることは悪人への刑罰、ひげを抜かれることは中近東の世界での最大の侮辱。しかし、火打ち石は「使命を遂行する固い決心を表すことば」。悪王マナセの時代の激しい迫害にさらされながら、主のしもべイザヤは、その使命に堅く立つものとされたのでした。次の第四のしもべの歌で、さらにしもべの苦しみが全面に現れてくることになります。