2021.6.27ことばの光


 先週の祈祷会は「イザヤ書を味わう」。イザヤ書六一章より「シオンの喜びと繁栄」について学びました。六一章は六〇章と密接に関連しています。主が輝く日が近いから「起きて、輝け」と命じる六〇章、続いて六一章は救いをもたらす主のしもべが主の恵みの年の到来を告げます。1節2節はイエス様が郷里のナザレ伝道において引用された御言葉であり、イエス様はご自身の存在をもってイザヤ書の預言の言葉の成就を宣言されました。イエス様は確かに「貧しい者」に福音を知らせたのです。目の見えない人を癒し、罪の支配のうちにあるすべての人に解放をもたらしました。(ルカ4:16-22)しかし預言の成就は「心を頑なにする」人々をも生み出しました。(ルカ4:23-30)イザヤ書6章9節10節の「心を頑なにするメッセージ」もなお有効だったのです。これは使徒の働きの結末、異邦人伝道の時代の始まりにおいても同様でした。私たちは福音に心を閉ざす人々の存在に失望する必要はないことを教えられます。福音を受け入れるか受け入れないかはその人の自由です。しかし私たちは絶えずイエス様の福音を語り続けるべきなのです。

 61章2節3節では、私たちの受けた救いが、予告されたものであったことを読み取ることができます。「悲しむ者」は「慰め」られ頭に「飾り」をいただき「喜びの油」を注がれ、「憂いの代わりに賛美の外套」を着せていただきました。イエス・キリストを与えてくださったまことの神様を知ったわたしたちは、どこから来てどこへ行くのかわからない人間ではなく、神の元へ帰る約束をいただきながら、神と共に生きる幸いなものとされました。「彼らは義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。」私たちは神様の栄光を現すために生きているのです。

 終末のシオンの復興には世界中の民が協力しますが、神の民は祭司の役割を果たします。私たちは神と人との仲介者。とりなしの祈りを祈る務めがあることを教えられます。

 61章初めの一人称は「わたし」。それが10,11節では「私」となっていることに注意してください。これは「主のしもべ」が自分を神の民と同一視して救いの時を喜び歌っている言葉なのです。歌われている内容は、救いを与えられた民の喜びです。