2021.12.12みことばの光
先週の祈祷会は「詩篇の愉しみ」。第5篇を学びました。3節に「朝明に」という言葉が繰り返し登場します。この詩篇は、詩人の朝の祈りでした。出エジプト記29章に大祭司アロンとその子らの務めが規定されていますが、彼らは全イスラエルを代表して、朝と夕にそれぞれ一匹、一歳の雄の子羊をささげることが命じられていました。5篇の詩人も朝一番に、罪贖われた者として、全き献身をもって祈りを聞いていただき、また神様からの語りかけを「見張る」ような気持ちで待ち望んだのでした。1節の「うめき」は、自分でも気づかないような心の奥底にある言葉にならない祈りですが、それが2節「叫ぶ声」となって爆発します。祈りは進展し、徐々に明瞭な響きに変えられます。
また詩人は「私の王、私の神」と呼びかけています。王であるダビデは、神こそが真の王であるということをよく認めています。8節で「あなたの義によって私を導いてください。」と願いました。王であるからといって自分で自分を義とするのではありません。「私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。」とも祈りました。自分の願い、自分の目的が成し遂げられることを願っているのではありません。神の道、神の目的こそ実現することを願っているのです。これがイスラエルの王の正しい姿でした。
5篇における敵は、偽りによって悪を行う人々でした。(5節、9節)詩人は「主の恵みによって義とされる」(7節)一方で、敵は、「彼らに責めを負わせてください(10節)」すなわち「罪ありと定めてください」と祈られています。敵の悪の根底には「あなた(=神)に逆らっている(10節)」罪があったからです。敵は単に詩人の敵であるのではなく、根本的には、神に逆らう悪魔であったことがわかります。5節、傲慢な者は、神の前に立てず、神に憎まれ、滅ぼされ、忌み嫌われます。9節、口、心、喉、舌をもって善人を害そうとしますが、むしろ彼らが自分の掘った墓で朽ち果てることになるのです。ついには10節、罪ありとせられ、倒れ、追い散らされます。悪がはびこるように見えるこの世の中で、神に敵する者はこのように滅びるということを、私たちは詩篇の祈りに教えられて、確信し、悪を離れ、善と平安を保つ者となるのです。